魔法使いの犬の犬

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魔法使いの犬の犬

今日は一段と雨が強かった。伊織の差している赤い傘の上で、雨粒たちが運動会を行っていた。黄色い長くつで地面にできた水たまりを蹴り飛ばすと、空中でたくさんの水滴に分かれていった。水色のレインコートは風に吹かれるが、あおられても、ゆっくりと定位置に戻るだけだった。普段であれば、河川敷にはランニングをするお兄さんや、犬の散歩をするお婆さんなどがいるはずだが、さすがに今日は誰もいなかった。  伊織は今日学校であったことを思い出しながら下校していた。伊織の友達である栞奈ちゃんは新しい家族を迎えたらしく、黒色の毛並みをした柴犬の動画を見せびらかしていたのだ。周りの子たちも「羨ましいな!」と栞奈ちゃんの周りに集まり、その輪に伊織は混ざっていた。小さくて、目がくりくりしていて、それでいて一生懸命に栞奈の元へ駆け寄る姿は、見ていた伊織でさえ、飼ってみたいと思うほど愛らしい姿だった。 「いいなぁ……」 伊織はもう一度水たまりを蹴り上げた。水たまりは飛び散ることはなく伊織の長くつに抱えられ、長くつを伝って伊織のジーパンに侵食していった。 「うえぇ……」 伊織は水を吸ったジーパンの触り心地に不快感を示しながら片足を下した。何とかジーパンが吸った水を追い出そうと手で強く絞ってみるが、ジーパンがただくしゃくしゃになるだけで、伊織はその様子にため息をついた。 「もう……」 伊織がもう一度ため息をついた時だった。雨音に紛れて聞き取り辛かったが、どこかで悲しげな声が聞こえた。伊織はすぐさま顔を上げ、あたりを見渡した。左側には雨で氾濫した川と、青い手すりが付いた橋があり、右には集合住宅の屋根が延々と奥まで続いていた。悲しげな声の正体がわからず伊織が首をかしげると、また小さな声だが「くぅん……」と今度ははっきりと聞こえた。 「あっちだ!」 伊織は堤防から高水敷まで一気に駆け降りると、そのまま橋の下まで進んで行った。橋の下は伊織の腰まで伸びた雑草と、所々にレジ袋やたばこの吸い殻などが落ちていた。伊織は少しいやな顔をしながら声のするほうに進んで行った。 「くぅん……」 少し息苦しそうに聞こえた声のもとに伊織はたどり着いた。ちょうど伊織が抱えられそうな段ボールの中に、鳴き声の正体は横たわっていた。 「ワンちゃんだ!」 白色の毛並みをしていたのだろう、ほとんど泥で汚れて黒くなっているが、所々に白い毛並みが顔を見せていた。短い四本足と長いしっぽを持っており、耳は横たわっている犬の目を隠すように垂れていた。犬は舌を出しながら、へっへっへ、と息を荒くしており、苦しそうに呼吸をしていた。 「ワンちゃん、大丈夫?」 伊織は泥だらけの犬を、抱えるように持ち上げた。水色のレインコートに泥が付着するが、今の伊織にはそんなことはどうでもよかった。持ち上げた瞬間、犬は見た目以上に軽く、伊織は思わず驚いた。学校の椅子よりも軽いこの犬は、伊織が持ち上げたことに気づいていないのか、眼は開く素振りを見せなかった。 「苦しそう、大丈夫じゃないよね。あっ、そうだ」 伊織は抱えた犬を一度段ボールの中に戻すと、ランドセルの中から水筒を取り出した。水筒の口を開け、伊織は水筒の中を嗅いだ。 「麦茶、飲んじゃダメだったりするかな?」 水筒の口を器にし、その中に飲みかけの麦茶を入れて、犬の口元へもっていった。だが、犬はそれでも反応を示さなかった。今度は犬の頭を優しく抱えながら、麦茶を犬に嗅がせるように口元に運んだ。 「大丈夫だよー。毒とか入ってないから」 伊織は優しく犬に声をかけた。その言葉に呼応するように、犬は目を閉じたまま、鼻をすすった。犬は二回、三回ほど匂いを嗅ぐと、はみ出ていた舌をさらに伸ばし、麦茶をすくうように飲み始めた。 「そうだよ、ワンちゃん。飲んでー。大丈夫だよー」 大雨の中、伊織の耳にはしっかりと、犬が麦茶を飲む音が聞こえていた。飲む勢いはかなり遅いが、それでも懸命に舌を動かし続ける犬に、伊織は目を離すことはなかった。 「がんばれー。飲んでー」 犬が麦茶を飲みやすいように、少し向きを傾けたりして微調整をしながら、伊織は懸命に看病した。  それからどのくらいが経ったのか、伊織には見当がつかなかった。犬は先ほどの荒い鼻息を止めて、ゆっくり深呼吸するような呼吸をし始めた。伊織はその姿を見て、いつの間にか流れていた額の汗を拭った。 「これで大丈夫かな?」 ゆっくり寝息を立てている犬の顔を見ながら伊織は呟いた。伊織は犬に麦茶を飲ませるあまり、適当に放り投げていた傘とランドセルを見つめながら考えていた。 「家に連れて帰りたいなぁ……」 考えていたことが声に出ていた。だがそれに伊織は気づいてはいなかった。再度、伊織は犬の寝顔を見ながら頭をなでる。 「かわいいなぁ……」 こんなに小さくて可愛い寝顔の犬を飼えたら、さぞかし楽しいだろうなぁ、と伊織は妄想していた。伊織はこの犬と散歩したり、走ったり、一緒に昼寝したりと夢想しながら、犬の頭をなでていた。伊織は思わず顔がにやける。 「飼おう。うん、飼おう!」 伊織は犬の頭をなでるのを止めて、立ち上がった。だが、すぐに伊織の頭の中で問題が発生する。 「お母さん、許してくれるかなぁ」 押しの弱い父親ならともかく、ちょっと門限を過ぎただけで怒る母親には、いったいどうやって説得をしようか。伊織は傘とランドセルを拾いながら考えた。考えて、考えて、犬の寝顔を見て思いついた案は「なんとかなる」だった。 「なんだかんだ言って、お母さんは門限破っても家に入れてくれるんだよね。だから大丈夫。もし、怒られても私が耐えればいいし、だから、ワンちゃんは心配しなくても大丈夫だよー」 伊織は寝ている犬の頭をなでながらささやいた。  伊織は傘の持ち手を段ボールの中にいれ、首で挟むようにして、段ボールを持ち上げた。段ボールが大きく揺れるが、中で寝ている犬は目を覚ます気配はなかった。伊織は段ボールを抱えながら、橋の下から空模様を伺った。まだ、雨は降っており、先ほどよりも風は強くなっていた。伊織は膝を持ち上げると、段ボールの底を支えて、しっかり段ボールを抱えられるように持ち直した。 「ここから五分くらいかかるけど我慢してね」 犬は返事をするかのように大きな呼吸をした。その姿に伊織はまたもやにやけると、一気に法面を登った。緩やかな斜面ではあるが、雨のせいで滑りやすい足場に伊織はふんばりながらできる限り早く登って行った。登り切って堤防上の舗装された道路に出て、段ボールの中にいる犬の顔を見る。安らかな顔をしている犬に伊織は元気をもらうと、息を切らしながらも家へ走って帰るのだった。
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