0人が本棚に入れています
本棚に追加
木造の少し年季の入った二階建ては伊織の我が家だ。庭と言えるほどの大きさの庭がなく、門扉を開けて、ちょっと進めば玄関にたどり着くこじんまりとした一戸建ての住宅だ。伊織は門扉を取っ手を段ボールで弾くように開けると、そのまま玄関へと走っていった。さすがに、玄関を開けるのに段ボールは持っていられないので、雨に濡れないように足元に置くと玄関を開けた。開けた玄関の先には、母親が人王立ちをして、伊織を見ていた。
「伊織!」
エプロン姿で出迎えた母親の顔は、まだ般若面の方が可愛げがあると言えるほど、すごい剣幕で伊織を睨みつけていた。伊織は母親の怒声に少し体をこわばらせるが、犬の雨風を早く凌いであげたくて、勇気を出して口を開いた。
「あ、あのね、お母さん」
「あのねじゃありません! もう六時じゃない!」
お母さんは力強く、下駄箱上の時計を指さした。時計の短針は六の数字を指しており、母親は怒りを伊織にぶつけた。
「こんな時間まで出歩いちゃダメでしょ! 外は暗くなるか危なくなるの! 特に今は天気が悪いんだから余計に危ないでしょうが!」
お母さんの怒声に伊織はうつむいてしまう。それでもなんとか勇気を振り絞り、伊織は声を上げた。
「犬が……」
伊織の声はか細く、外の雨の音でかき消されてしまう。
「なに? なんか言った?」
お母さんは怒り交じりに伊織に問いただした。
「犬……、これ……」
伊織はふさぎ込むようにしゃがみ、その状態で段ボールを母親の前に押し出した。
「なによ、こんな段ボール」
「犬なんだ、外にいて、弱ってたの」
段ボールの中を見たお母さんは、さっきまでの怒声を止めて、段ボールの中を見続けた。しばらく見続けた後、お母さんは言った。
「元の場所に返してきなさい」
「えっ」
伊織は顔を上げた。お母さんの言ったことが信じられず、目をまん丸にしてお母さんを見つめた。お母さんは先ほどの怖い顔から一変して、困った顔で段ボールの中を見ていた。
「いいから返してきなさい、伊織」
お母さんは伊織を見つめながら言った。伊織は腹の奥が煮えくり返る感覚になり、声を荒げた。
「お母さん、ひどいよ。弱っているんだよ? なんでそんなこと言えるの」
伊織は歯ぎしりしながら段ボールに近寄り、犬を持ち上げた。犬はぐっすりと眠っており、伊織はその愛らしさに頭をなでた。先ほどの怒声を浴びて荒んだ心を癒すように、伊織は優しい顔で犬を見つめた。
「体も汚れているし、痩せているから何か食べさせなきゃ」
「伊織、犬は人形とは違うのよ、それに……」
「それに、なに?」
伊織はお母さんを睨みつけた。お母さんは先ほどの威勢とは打って変わって、心配な顔で伊織を見つめていた。伊織は段ボールを抱えて、目の前で廊下をふさいでいるお母さんに対して「どいて」とだけ言い放つと、お風呂場へ直行した。その姿を見たお母さんは少し悲しそうな表情をしていた。
その日の夜、伊織は犬に付きっきりだった。伊織は犬の汚れを洗い流し、お母さんのスマートフォンから、簡易的なご飯のレシピを調べ、作って食べさせた。犬は元気がなく、自分からご飯を口にしない様子だったので、口の中に無理やり入れるようにして食べさせた。そうして面倒を見て、二階の自分の部屋に犬を招き入れ、一緒に布団へ入った。布団に入っているときも伊織は励ますように犬の頭や背中をなで続けた。
「大丈夫。元気になるよ」
励ますように言い続け、伊織は寝落ちするまで、ずっと犬を撫でていた。
寝ていたことに伊織が気づいたのは、まだ目覚まし時計が五時を示す前だった。窓の外は寝た時と変わりなく真っ暗で、部屋の明かりを付けると、目が驚いて思わず瞼をぎゅっとしてしまう。部屋を一周するようにあたりを見渡すと、自分の近くで寝ていた犬がいないことに伊織は気が付いた。
「ワンちゃんがいない!」
部屋の明かりを付けるリモコンを放り投げ、伊織は勢いよく布団から起き上がった。勉強机の下やクローゼットの中を調べるが、犬がいた痕跡は見つからなかった。部屋中を探し回る伊織であったが、部屋の扉が開いていることに気が付き、伊織は勢いよく扉の外を調べ始めた。伊織の部屋がある二階には、他にもお父さんとお母さんの部屋が存在するが、そのどちらも扉が開いてはいなかった。
「もしかして、一階に降りたの?」
伊織は部屋から出た目の前にある、一階に続く階段を下りた。
伊織は居間まで行くと、電気をつけてあたりを見渡した。机の下やカーテンの裏側、玄関まで捜し歩いたが、一向に犬がいる気配はなかった。もしかして本当は私の部屋にいるのかも、と考えた伊織は踵を返すと、再び階段に足をかけた。
その時だった。
伊織の目の前を、あの白い毛並みをした犬が、パンを咥えながら通り過ぎて行った。小学校でも身長は高い伊織の目線の高さと同じ位置で。空中をひたすら短い脚で漕ぎながら、ぷかぷか浮いていた。昨日の大雨の中、助けた犬が空を飛んでいたのだ。
「……」
伊織は言葉を失った。目の前の光景は何ともかわいらしい様子であるが、伊織の思考は、寝起きともあって完全に止まってしまった。伊織が口を半開きにして、懸命に犬かきしている白い毛並みの犬を見つめていると、犬はこちらに気づいたのか、犬かきを止めて不思議そうに伊織を見つめた。
「どういうこと?」
伊織の思考は徐々に運転を再開し始めた。
「夢かな?」
だが、犬は伊織が必死に考えをまとめていることなんて気にもせず、しっぽを振って伊織の胸元に頭をぶつけた。その姿に伊織はまだぽかんと口を開けながら、昨日と同じように頭をなで始めた。
「とりあえず、パンはだめだよ」
伊織は右手で頭を撫でながら、左手でパンを持つ。すると犬は、撫でている伊織の右手に頭を擦り付けるようにし始めた。犬の仕草に伊織は依然、口を開けながら答えるように頭を撫で返す。ふかふかな毛と、ときおり手をなめ始める仕草に、伊織は開いた口の口角を徐々に上げていった。
「あなた、空飛べるのね! 凄いわ! 空を飛ぶ魔法だなんて!」
「ワン!」
伊織の言葉に呼応するように、犬は鳴き声を上げた。その様子に伊織はさらに笑顔を作った。
「そうだ。あなたおなか減っているわよね。今、パンを小さくするから、ちょっと待って」
思いついたように伊織は、左手に持っていたコッペパンを食べやすいように、小さく切り分けた。切り分けたパンくずを少し丸めると、犬の口元まで運んでみる。犬はしっぽを振りながら、伊織の手ごとパンくずをなめ始める。伊織がゆっくりパンくずを手から離すと、まるで掃除機のように犬の口へと消えていった。くちゃくちゃと咀嚼音が聞こえ、少しすると犬は鼻の頭をぺろりと舐めた。
「おいしい?」
伊織が聞くと、犬は伊織の右手を嗅ぎ始める。その様子に伊織はすぐさまパンくずを切り取ると、再び犬の目の前に差し出した。それを見た犬はすぐさま伊織の右手になめ始めた。
そうして、伊織は犬にパンを一個丸ごと食べさせると、犬は満足したように伊織の胸元に飛びついた。とっさのことに伊織は犬を抱えると、犬は大きなあくびをした。
「食べた後は眠くなるものね」
伊織は犬を抱きかかえ、赤ん坊をあやすように優しく揺らした。犬は顎を伊織の腕に乗っけると、目をゆっくり閉じた。
「うん、可愛い……」
伊織は犬の寝顔を見ながらつぶやいた。何とも幸せそうな寝顔に伊織もつられてあくびが出てくる。
「あなたのお名前は、『パン』にするわ……」
伊織は眠り眼でつぶやいた。伊織はパンの寝顔を見ながら、自分の部屋へと戻る階段をゆっくり上っていった。
時計の針は八時を指していた。伊織は布団からゆっくり起き上がると、隣で丸まって寝ているパンを見つける。未だに眠り続けるパンの頭を軽く撫でながら、伊織は掛布団を体から外した。
「そろそろ一階へ行かなきゃ……」
伊織は眠い目をこすりながら、パンを置いて一階に下りて行った。今日は土曜日なので、お母さんもお父さんも居間にいた。お母さんは下りてきた伊織に対して、ご飯できてるから早く顔を洗ってきなさい、とだけ言うと、せわしなく食卓の上にお皿を並べ始めた。お父さんは黒縁の丸眼鏡をかけながら、読んでいる新聞紙越しに「伊織、おはよう」とだけあいさつすると、伊織も「おはよう」だけ言って洗面所に向かった。
重力に逆らった髪の毛を梳かしながら、伊織はパンのことをどう伝えるか悩んでいた。空を飛ぶ犬なんだ、と言ったところでお母さんは頭を抱えるし、そもそもお父さんには犬を飼いたいなんて伝えてないのだから、まずはそこからじゃないかと自問自答しては、洗面所から出て行った。伊織は深呼吸しながら、新聞紙を読んでいる父親の目の前に立った。その様子に気づいたお父さんは新聞紙から目を離し、「どうした?」と伊織を尋ねた。
「実はね、お父さん。犬を飼いたいんだ」
その言葉を聞いたお父さんはお母さんと目配せした。そのあと、お父さんは新聞紙を畳んで、食卓の上に置いたあと、伊織に向き直った。
「お母さんから聞いてはいるよ。 本当に面倒を見るつもりかい?」
伊織は黙ってこくりとうなずいた。その姿に、お父さんは再度、お母さんと目配せすると少し諦めきった様子で話し始めた。
「伊織よりも早く死んじゃうんだよ。それでもいいのかい? きっと、伊織は苦しい思いをすると思うよ」
「大丈夫」
伊織はお父さんから目を離さなかった。その言葉を聞いていたお母さんは食事を置くのを中断し、伊織を見つめていた。
「伊織、ワンちゃんを見せてくれないかな?」
「分かった」
そうとだけ答えると、伊織は一度自分の部屋に戻ると、呑気に丸まっているパンを抱きかかえては居間へと戻ってくる。
「この子なんだ。名前はもう決めてる。パンっていうの。昨日コッペパンを食べてたから」
伊織はお父さんに見せるようすると、お父さんは少ししかめっ面になった。
「名前まで付けちゃったんだね」
「だって、可哀想なんだもん。ワンちゃんだけじゃ」
伊織は優しい表情でパンを見ながら話すと、お母さんはため息をつきながら台所へと戻っていった。お父さんは少しの間、目を閉じ考えている様子を見せると、納得したような表情を見せた。
「……分かった。ちゃんと最後まで面倒見るんだよ」
「うん!」
お父さんの言葉に伊織は今日一番の大きな声で返事をした。満面の笑みを浮かべて、ぐっすりと眠っているパンの頭を撫でながら喜んだ。ただ一人、お母さんだけはその様子を見ながら、唇を嚙んでいた。
最初のコメントを投稿しよう!