魔法使いの犬の犬

3/4
前へ
/4ページ
次へ
パンを家族として受け入れてからしばらくして、伊織は毎日のようにパンと散歩をしていた。学校から帰ってからも、休みの日も率先して散歩をし、お母さんのスマートフォンを勝手に使ってはパンが喜びそうな料理を作って食べさせた。基本的にはパンは伊織の部屋で飼うことになり、お母さんもお父さんも全くと言っていいほど面倒を見る気配はなかった。しかし、それはある意味好都合だった。パンが目を覚ましているときは、大抵パンは宙を泳いでいた。こんな姿を見たら、さぞかしお母さんはまた捨ててきなさいとでも言うに違いない。伊織は宙を泳いでいるパンを見ながら、ふと思った。 「なんでパンは外歩くときは、ちゃんと地べたに足をつけているの?」 「アウ?」 伊織の言葉に、パンは首を傾げた。 「いや、空を飛んでたら飛んでたで大騒ぎになるだろうから、別にいいんだけどさ」 パンはベッドの上で寝転んでいる伊織に駆け寄ると、お腹の上に着地した。 「パンってもしかして、空気読んだりするの?」 伊織の言葉にパンは特に答えるわけではなく、丸まってあくびをした。 「なわけないか」 伊織は単純に地面の感触や、電信柱の臭いを嗅ぎたいだけだろうと勝手に結論付けると、パンの背中をわしゃわしゃとかき上げた。かき上げてもパンは能天気に丸まっているだけで、それ以外の反応を見せない。  伊織はトイレに行きたくなり体を起こすと、お腹の上に乗っているパンを適当に放り投げた。パンはそのまま宙を浮きながら、ぷかぷかと漂い始めた。伊織はパンのその自由気ままな態度を見ていると、昨日見たテレビ番組を思い出した。テレビ内容は犬のしつけについての特集で、ご主人のおなかの上で寝始めたりするのは見くびられている証拠、という話を聞き、伊織はパンにもしつけが必要なのではないかと考えていた。しつけと言っても空を飛ぶ犬に対してのしつけなんてあるのか、と考えながら部屋を出てトイレを済ますと、トイレから出た先でお母さんと出くわした。あの日からお母さんは、伊織の顔を見るたびに怒るようなことはなくなった。それどころか少し心配する様子を見せるほどだった。これもパンが我が家に来てくれたからである。 「伊織、大丈夫……?」 あの日以来、お母さんは伊織に声をかける際は決まって「大丈夫?」という言葉が先行して出てくるようになっていた。その様子の変化に伊織は少し不気味に思いながらも、それでも親子としての体裁は守ろうと努力はした。 「大丈夫だよ。しっかりやれているよ」 とだけ言葉を返す。ちょっとした笑顔と少し声色を高くして元気なようにふるまった。その言葉にお母さんは「そう。ところで買い物しに行ってくるからお留守番よろしくね」と話すと、買い物へ出かけて行った。その姿を伊織は見送ると、自分の部屋へと戻っていった。  空を飛ぶパンは体を伸ばしながら、ゆっくりと宙を旋回していた。その様子を見ながら伊織は「よし」と意気込んだ。伊織はパンのお腹を鷲掴みし、自分の胸元まで連れてくると、そのまま床におすわりさせた。パンは丁寧に足を折りたたみ、おしりをつけては、きょとんとした様子で伊織の顔を覗いた。 「いい? これがおすわりよ。分かる? おすわり!」 伊織はパンに言い聞かせるように言うが、理解しているのかしていないのか、パンは自身の鼻をぺろりと舐めた。そのあと、ゆっくりとパンは床から離れて、おすわりした姿で宙を漂い始めた。 「はぁ、これじゃあしつけにならないじゃない」 伊織がうなだれると、パンは部屋の片隅に置かれている水の入った器の方を見つめ始めた。その様子に、伊織もパンの視線の先にある水の入った器を見つめた。すると今度は水の入った器がパンと同じようにゆっくり浮き上がった。パンが宙を泳いでいるときよりかはだいぶ遅いが、それでも着実にパンの下に近づいていた。伊織が口を半開きにして見とれていると、パンの口元に水の入った器がたどり着いた。パンは何気ない顔で水を飲み始めると、飲み終わった水の入った器を床に置いた。 「……初めて見た」 伊織は口を半開きにしたまま、宙に浮くパンを胸元に手繰り寄せた。そのまま抱きかかえると、パンは冷たく濡れた舌で伊織の顔を舐めた。 「パンってこんなこともできたのね。いつできるようになったのよ」 伊織はパンの胸元を撫でながら問いただした。もちろんパンが返事をしてくれるわけではないが、代わりにとリードを引き寄せてきた。パンは伊織の手元にリードを持ってくると、しっぽを振りながら再度伊織の顔を舐めた。 「散歩行きたいってことね。はぁ、パンにしつけはいらないのかもしれない」 新しい発見ができて嬉しいのか、犬のしつけという醍醐味を失って悲しいのか、伊織はなんだか不思議な気持ちになりながらも、パンの赤い首輪にリードを付けるのだった。  時は進み、伊織が中学生に上がってからしばらくが経過した。中学校では小学校からの友達である栞奈ちゃんと犬の話で駄弁り、放課後はパンの面倒に伊織は勤しんだ。中学校には部活なんてものがあるが、わざわざ部活して疲れに行くよりも、魔法を使う犬を育てる方がよっぽど好きだった。  日直当番であった伊織は、普段散歩に出かける時間よりも二十分も遅れて学校を出た。門扉を通るころには既に見送りの先生なんて立っていなかった。 「はぁ、なんで部活だからって私が当番の仕事を全部しなくちゃなんないのよ。ムカつく」 伊織は愚痴をこぼしながら帰路についた。伊織は眉をひそめ、ため息をつきながら早足で河川敷を歩いた。河川敷の堤防を歩いていると、犬を連れて散歩している人たちと何度かすれ違った。パンよりも大きな犬や、足の長い犬、色んな種類の犬とすれ違い、伊織は犬とすれ違うたびに、少し嬉しそうにほほ笑んだ。  少し進むと、今度はリードを引きずりながら一匹の犬が散歩をしていた。連れている人は見かけられず、けれども、白い毛並みの短足な犬は、細かいステップを刻んでいた。伊織はその犬を見て、まるでパンみたいとほほ笑んだあと、すれ違いざまに白い毛並みの犬を目をまん丸にして凝視した。 「パンじゃん……」 堂々と歩いているパンは何食わぬ顔で、伊織の横を通り過ぎようとしていた。 「パン! ストップ!」 急いで伊織は引きずっているリードを拾い上げた。リードを拾い上げられたことに気づいたのか、パンは立ち止まり伊織の方に振り返った。へっへっへ、と鼻息を荒くしながらパンをしっぽを振って、伊織に向き直りおすわりをする。 「あなたどうやって家から出たの⁉」 伊織は驚き、思わず高い声が出てしまう。もちろん、その言葉にパンが答えることはない。少なくとも、お父さんかお母さんが逃がしたわけではないだろう。二人とも伊織が学校に行く前には既に家から出て行ったからだ。となると、考えられることは一つだった。 「今度は鍵開けの魔法を覚えたのね」 その言葉のあと、パンのしっぽの振りがひと際早くなった気がした。伊織は頭を抱えてしゃがみこんだ。その様子を見たパンは飛びつくように伊織に近づいた。伊織の手を自分の頭に被せるように、パンは頭を擦り付けるような仕草をした。その仕草に、伊織は肩を落としながら、渋々頭をなでる。 「この調子だと、私が散歩させなくてもいいじゃない」 伊織の言葉を聞いたパンは伊織の手から離れ、リードを口にはさみ強く引っ張った。まるで「散歩に行こう」と言わんばかりにパンが伊織を引っ張る。なんだか、そのようにパンが訴えているような気がして、伊織は顔を上げ、パンの顔を見ては立ち上がった。 「まさか、迎えに来ようとしていたのか……。そんなわけないか」 伊織はあきれたように笑ったあと、パンと共に散歩を再開するのだった。  ――このあと、家に着くと玄関はおろか、門まで開いており、伊織はパンに鍵をかけることの大切さを説くのだった。  中学三年生となり、伊織はほとんど家にいることが無くなってしまった。原因は受験勉強である。パンの散歩はおろか食事でさえ、家に帰ってくる九時ごろになってしまう。さすがに遅すぎるので、お母さんにお願いしようかと考えたか、小学生の時に面倒を見ると言ってしまった以上、伊織も容易に頭を下げることはできなかった。自身のプライドにパンを巻き込んでしまうのは申し訳ないと思っているが、それでも、人が変わったように怒らなくなったお母さんにお願いするのはなんだか怖かった。あの時から、伊織とお母さんとの距離に溝ができてしまったようで、伊織もそれは実感していた。どうにかして改善したいなとは思っているものの、今の伊織にはそんな余裕はなかった。 「はぁ」 「なに? なんかあったの?」 伊織のため息に栞奈ちゃんは興味深そうに、にやにやして聞いてくる。六畳一間の塾の教室では、伊織と栞奈ちゃんは一緒に並んで講義を受けていた。講師の声はひときわ大きいため、小さい声で話していれば、前の席に座っている人にでさえ会話は届かない。 「なんでもないよ」 「分かった。パンちゃんのことね」 「なんでわかるのよ」 「顔を見ればね」 くすくすと笑う栞奈ちゃんは、講師に笑っているところを見られないように俯いた。 「……ご飯、いつも遅くなっちゃうから、お母さんにお願いしようかなって」 「普通ならやってくれそうだけどね」 「普通じゃないから。私のお母さん」 黒板に書かれた文字をノートに書き写しながら伊織は答えた。その様子を横目で見ていた栞奈ちゃんは「そっか」とだけ返事した。  講師の話を聞かずに、栞奈ちゃんはシャーペンをノートの上で適当に走らせると、再び口を開いた。 「んー、でもパンちゃんは大人しく待っていてくれるのなら、今のままでいいんじゃないかしら。きっとその方がパンちゃんにとってもうれしいはずよ」 「そう?」 「そうよ。だって、犬ってね。忠実にご主人のことを待っている生き物だもの」 少し悲しげに栞奈ちゃんは呟いた。その言葉に伊織はノートから視線を外し、栞奈ちゃんを見つめた。栞奈ちゃんの表情は憂いていたが、どこか納得したような顔立ちだった。そんな顔をする理由を伊織は知っていた。栞奈ちゃんの飼っていた犬はつい先日亡くなったばっかりだった。まだ七歳という若さで、心臓に病を持ち命を落とした。亡くなる直前まで、犬は栞奈ちゃんを待っていたらしい。栞奈ちゃんが急いで学校から戻ってくると、最後にその手を舐めて、犬は息を引き取ったのだそうだ。その背景を知っている伊織は、栞奈ちゃんの言葉が心に重く響いた。 「ごめん」 「いいの。あなたは大切にしてあげて」 栞奈ちゃんが話し終えると同時に予鈴がなった。予鈴が鳴り終わると、大きな声の講師は「気を付けて帰るんだぞ」と黒板を綺麗にし始めた。伊織はいつの間にか手が止まっており、書きかけだったノートをじっと見つめた。 「どうしたの?」 栞奈ちゃんが席から立ち上がり、青色のリュックサックにノートや筆箱をしまっていた。伊織は声をかけられ、持っていたシャーペンを筆箱に入れた。 「なんでもないよ。ちょっと考え事をしてただけ」 「考えごとね。もしかして、志望校が落ちそうとか?」 「あなたよりは評価高かったよ」 伊織は鼻で笑うと、つられて栞奈ちゃんも笑った。伊織は栞奈ちゃんの笑う姿に、いつか来るであろうパンと離れるその時の姿を重ねたのだった。  塾から帰ると、伊織はすぐさま自分の部屋へ向かった。扉を開ければ、いつものようにパンが宙を泳いでいた。だが、その日、伊織の悩みの種が解消される出来事が目の前で起きていた。 「ごはんが……、浮いてる……」 考えてみればごはんが浮くなんてことが不可能ではないのは、魔法を使うパンを見てればある程度の予測はできていた。パンはドックフードを十粒ほど、本棚の上に置いてある蓋の付いた容器から取り出すと、器用にまとめながら宙に浮かせていた。それを食べに行こうとパンは宙を泳ぐが、漕いだ慣性で何度もフードの前を行ったり来たりしていた。 「優秀なのかな?」 パンはよだれを垂らしながらも、一生懸命に四本足で宙を漕ぐが、伊織が先ほどから見ている限り一度も口元までにドックフードは届いていなかった。そんな姿に伊織は思わずニヤニヤしてしまう。しょうがないなと言わんばかりに、伊織は宙に浮いているドックフードを手で掴むと、ドックフードを凝視しているパンの口元に持って行った。 「遅れてごめんね、パン。まさかこんな芸当を覚えるなんて驚いたけど」 一瞬のうちに伊織の手の上に乗っていたドックフードはきれいさっぱり消え去り、伊織の手についていた食べかすをパンはペロペロと舐めていた。その様子を見ながら、伊織はパンの頭を撫でた。 「よーしよし、いい子、いい子」 パンが勢いよく手のひらを舐めるので、伊織も勢いよくパンの頭を撫でた。それに満足したのか、今度は伊織の胸元にパンが寄り添うと、伊織はパンを抱きかかえた。そのあと伊織が背中を撫でると、パンは伊織の腕に顎を乗っけた。この状態が伊織とパンの魔法を使っていないときの定位置である。何年も一緒に過ごしてきたが、この状態がパンにとっても幸せなんだろうと伊織は勝手ながらに思っていた。 「相変わらず甘えん坊ね……、私も好きだけど」 伊織はゆっくりパンの背中を撫でた。パンもそれに応えるようにあくびをした。  その日以来、ドックフードの容器をパンの寝床のそばに置いた。伊織の帰りが遅くなった時、先に食べてほしいと思い置いたが、それと同時に、食べすぎるのではないかという不安があった。だが、そんな考えとは裏腹にパンは伊織が帰ってくるまで、ドックフードを食べることはなかった。――多少のつまみ食いは、仕方がないことだと目をつぶって見ないふりをした。 
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加