15 さよなら愛しい人

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15 さよなら愛しい人

「少し休まれた方が宜しいのでは? 奥様が起きていても今出来る事はありませんよ」  モルガンが出て行ってからさほど時間は経っていない。それでも永遠のような時の長さを感じていた。ルネが暖炉に薪を焚べると、膝に毛布を掛けてくれた。 「もしもフレデリック様に何かあったら私はどうしたらいいの」 「……ベルナンド夫人がお見えになってから奥様のご様子がおかしく心配です」 「フレデリック様は帰還途中にも襲われていたし、ただ心配になったのよ」  ミレーユから聞いた話はフレデリック本人に確認するまでは誰にも話す気はない。そして誤解だと否定して欲しかった。 「……そうでしたか。今温かい飲み物を」  ルネが言いかけた時だった。外で馬の声が聞こえる。アナスタシアは部屋を飛び出していた。待ちきれずに扉を上げると、そこに立っていたのはアルベールだった。長いコートはずっしりと雨を吸って濡れている。長い髪からも水滴が落ちていた。 「アン、起きていたのかい?」 「どうしてここに」 「どうしてって騎士団に使いを送っただろう? プアリエ団長と丁度酒を飲んでいたところでね。驚いたが騎士団も向かったから何も心配はいらないよ。それよりも手薄になっているこの屋敷の方が心配だったんだ」  アナスタシアは答えられずとっさに俯いてしまった。 「モルガンもいるし、何よりフレデリックがそう簡単に危ない目に遭う訳がないよ。それは僕が保証する」 「でも記憶を失ったではありませんか!」  勢いよく上げた顔は酷いものだったと思う。熱いものが目から溢れてくる。アルベールはしっとりと濡れた手袋を外すと指先で涙を掬ってくれた。その時不意にアルベールも雨に打たれてきたのだと思い出し、アナスタシアはすぐに屋敷の中に招き入れた。  アルベールは取り急ぎマルクから差し出された着替えを受け取ると、濡れた身体を乾かす為に暖炉の前に座った。 「どうしてフレデリックが危ないと思ったんだい?」  問われるだろうと思っていた言葉にびくりと身体を跳ねさせたが、アルベールの声色は責めている訳でも問い詰めてくる訳でもなく優しい声色だった。 「大丈夫だから話してごらん」  アナスタシアは首を振った。すると盛大な溜め息が漏れてきた。 「僕と一緒に領地に来るかい? 君の気が済むまでいたらいい。今はどことも戦争はしていないし、比較的安全だよ。うちの領民達はコーレ家のお嬢様を大歓迎するだろうからね」 「お兄様、ありがとうございます。でもフレデリック様とお話をしてみます。でももしそこで上手く話し合いができなかったら、私も復興のお手伝いをしに行ってもいいですか?」 「大歓迎だよ。フレデリックなんかといるよりもずっと楽しく暮らせるからね」 「それでもフレデリック様と一緒がいいんです」 「楽しいとは言わないんだ? アンは素直だね」  容姿の割にごつごつとした手が伸びてくる。剣を握っている手。戦場で戦う人の手。フレデリックもこんな手をしていた。その指が髪に振れかけた瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。  立っていたのはフレデリックとモルガンだった。アナスタシアは急いで近付くとどこも怪我をしていないか確かめようと手を伸ばした時だった。その手を避けてフレデリックは真っ直ぐに進むと座っていたアルベールの胸元を勢いよく掴んだ。その力で胸元の釦が弾け飛ぶ。何も言わずに見つめ合ったままの二人に、アナスタシアは勢いよくフレデリックの腕を掴んだ。もちろんそんな事で離れるような力ではない。それでも心配をして駆けつけてくれたアルベールへの態度に、初めてフレデリックに怒りが込み上げていた。 「手を離して下さい! 私を心配して来て下さったのです!」 「夫のいない間に妻を口説く為の間違いだろう? 生きて帰ってきて残念だったな!」  見下された目と目が合う。フレデリックは、ハッと息を止めたがそれ以上何も言わず乱暴に掴んでいた手を離した。 「戻る途中にモルガンから聞いたがお前の勘違いだ。ベルナンド侯爵は俺を害そうとはしていない。帰還中に襲ってきた者はベルナンド家の者かとも思ったが、ベルナンド家が関わっていると思わせる為の罠だったんだ」 「それならどうしてベルナンド侯爵に呼ばれたのですか?」  フレデリックは息を詰めると言葉を飲み込んだ。 「マルク、客人のお帰りだ」  マルクは一度だけアナスタシアを見た。 「マルク駄目よ」  アルベールは手を上げて無害だと主張しながらマルクと共に部屋を出て行く。部屋の中を静寂が支配している。 「まさか夫の留守中に、あれだけ無防備な姿を他の男に晒しているとは思いもしなかった」 「無防備だなんてそんな……」 「薄着であれだけ密着していればそう思われても仕方ないだろう!」 「ご心配なさるような関係ではありません。今はご記憶がなくそう見えたかもしれませんが誓ってありえません」 「……記憶がなくて悪かったな。お前もこんな夫よりも辺境伯夫人の方がいいんじゃないか?」  アナスタシアは堪らずに部屋を飛び出していた。 「……今のは最低です」  モルガンは地を這うような冷たい声で言った。 「分かっている」 「追いかけて下さい。私はフレデリック様からお預かりした押収品をプアリエ団長へお持ちします」 「いや、お互い冷静になるべきだろうから俺も行く。それに今優先するべきはこの件だ。アンとは帰ってからゆっくり話すよ」 「男の嫉妬はみっともないですよ」 「嫉妬なんかじゃない」 「認めないんですね、奥様に心底同情致します」  二人は止みかけた雨の中へと再び出て行った。  アナスタシアは部屋の中で窓の外を見ていた。  フレデリックの乗った馬車が門を出ていく姿を見ながら、しばらくは動けなかった。  夜明けにはまだ早い。燭台を机の上に置くと、おもむろに引き出しを開ける。六年間、戦場にいるフレデリックとやり取りしてきた手紙の束を広げ、その中から一通を手に取った。一番最近の手紙で終戦後に書かれたものだった。不意にポタポタと涙が落ち、紙にしみを作っていく。大事な宝物が汚れてはいけないと思い、すぐに元に戻した。そして今度は手紙を二通急いで書いていく。急いでしたためたので満足のいくものではないが、きっと今は何度書き直した所でこんなものだろう。諦めて封蝋をし、並べて置いた。手早くバッグに着替えや最低限の持ち物を詰めていく。その上にフレデリックから送られてきた手紙の束をそっと乗せた。そして最後に薬指にはめている指輪を外そうとして一瞬手が止まる。しかし目を瞑って抜き取ると、用意したフレデリック宛の手紙の上に置いた。部屋を見渡すと涙は自然と止まっていた。 「もっと早くにこうするべきだったんだわ」  フレデリックからしてみれば見覚えのない女が妻だと言って気味が悪いだけだっただろう。それなのに妻として扱おうとしてくれた。そんな優しいフレデリックに甘えて、明日は記憶と取り戻してくれるかもしれないと日々を過ごしてきてしまった。指輪の痕が残る指を擦ってみる。未練は大いにある。でも今は心臓が引き裂かれるように傷んでも耐えるしかなかった。  そっと部屋を出ると、玄関の前にはルネが立っていた。 「どこへ行かれるおつもりですか?」 「もう寝ているのだと思っていたわ」 「奥様のご様子が心配で眠れませんでしたよ。それでどちらに行かれるおつもりですか?」  言葉に詰まってしまう。ルネの足元には小さなバッグが置いてあった。その視線に気がついたのか、泣き笑いのような顔が返ってきた。 「私もお供致します。断られても着いていきますからね」 「フレデリック様がお許しにならないわ。この家の主人はフレデリック様なのよ」 「坊っちゃんはよいのです。私の性格をよくご存知でしょうから。それよりもどちらに行かれるおつもりだったんです? ご実家でしょうか?」 「実家には帰らないわ。迷惑は掛けられないもの。お祖父様の所に、お母様のご実家に向かおうかと思ったの」 「辺境伯様の所でもなく?」 「ヴァレリー家に行けばそれこそ大迷惑をお掛けしてしまうわよ。お優しいからさっきはああ仰って下さっていたけれど、終戦後で皆大変な時に面倒事は持ち込めないわ」 「しかし、確か奥様のお母様は……他国のご出身では?」 「他国ならフレデリック様の手も届かないだろうし、迷惑を掛けるのも最小限度だと思うの。ずっと遊びに来るようお祖父様達にも言われていたし、よい機会よね?」 「でもお母様は商家のお嬢様ではありませんでしたか? という事は、こう言ってはなんですが、庶民ご出身でいらっしゃいますよね」  ルネは口にしてみるみる顔を引き攣らせていった。 「なりません、今は侯爵夫人なのですよ!」 「ルネも知っているでしょう? 私は元々働くのが好きなの。侯爵夫人なんて務まらなかったんだわ。これからフレデリック様の為になるのは私のみたいな田舎貴族の妻じゃないのよ」 「ご自分を貶めるようなお言い方はお止め下さいませ! 奥様はご立派に自立されております。それにご実家も素晴らしい功績を上げておられます。それもこれも奥様が……」 「ルネに国境を越えて欲しいとは思っていないの。悪いけれどここでお別れよ」  不満そうにしているルネの目が赤くなっている。硬い手を取るとそのまま抱き締めた。 「沢山感謝しているわ。だからこそ連れてはいけない。どうかフレデリック様をよろしくね」 「それならばお見送りくらいお許しください。馬車の手配と当面の食料も積み込まなくては。それから国境までの護衛も雇いましょう」 「それは俺が! 俺にやらせてください!」  厨房から出てきたジルベールは、はいはいと言いながら手を上げて走ってくる。ジルベールが側に来るとお菓子の甘い香りが漂ってきた。 「俺はアナスタシア様に拾われましたし、アナスタシア様がいなくなった屋敷に仕える気はありませんから。じいちゃんの事は頼めば近所とか昔の同僚とかが面倒見てくれるし、アナスタシア様が落ち着くまでしっかりとお供させて頂きます!」  こんな状況なのに笑顔で言われ、思わず笑ってしまった。ジルベールは超特急で厨房に戻ると、一人であれやこれやと騒ぎながら籠一杯の食料を詰め込んできた。すでに上にはマントを羽織っている。そしてにんまりと笑った。諦めたのはルネの方が早かった。 「確かにお忍びならジルベールと一緒の方が夫婦として見られて安全でしょうね。坊っちゃんの妻だと知られる方が危険は増すと思います。どう致しますか?」  アナスタシアは正直迷っていた。ジルベールはなんの取り柄もない自分を慕ってくれている。だからこそ危険な目に遭わせるなんて考えられなかった。 「気持ちだけ受け取っておくわ」 「そういうのは却下です。俺と行きましょう。と言いますか俺も行きます。これだけは譲れませんか。もし置いていくならすぐに旦那様の元に知らせに行きます。そうすればすぐに追いつかれるでしょうね。連れ戻されますよ」 「駄目よ! そんなの絶対に駄目」 「俺には何があったかは全く分かりませんが、奥様が悪いとは思えません。絶対に引きませんからね!」  張り詰めた空気を壊す程の元気の良さに諦めて頷いた。 「それなら国境付近までお願いしようかしら。途中でお祖父様には手紙を出して迎えを寄越してもらうつもりだから、あなたはそこまでよ。ありがとうジルベール」  不安がないと言ったら嘘になる。だからそこ、底抜けに明るいジルベールの笑顔と優しさが心に沁みた。 「到着したら連絡を下さいませね! 必ずすぐに出して下さいよ?」  ルネが縋るように腕を掴んでくる。 「分かった、約束するわ。その前にもう一通手紙を書いていくわね」  それはフレデリックに宛てた二通目の手紙だった。目的地までジルベールと馬を借りていく事、使用人達を咎めないように許しを乞う内容だった。マルクが姿を見せないのはせめてもの優しさなのだろうと思う。マルクは立場上どうしても止めなくてはならない。そして制止できなければすぐに、フレデリックに知らせなくてはならない。おそらくどこかで見ていて、しばらくした後にフレデリックに知らせを出すはず。やはりフレデリックも夫として追いかけなければならないだろうから、何としても距離を取りたかった。  まず先にこの手紙をフレデリックに渡すようルネに伝えると、夜の闇に紛れてジルベールと共に屋敷を出た。
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