オランダの降伏

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オランダの降伏

オランダでは1931年にヒトラーに共鳴した国家社会主義運動が始まり、ナチス政党が約9万の勢力を有していた。 ドイツ軍とオランダのナチ党は、全オランダの反ナチ派約30万を連行し、ドイツ各地で強制労働に従事させ、さらに約10万のユダヤ人を強制収容所に送った。 それに対する抗議ストや抵抗があらゆる形で続けられた。  第一次世界大戦でベルギーやルクセンブルクが占領されたにも関わらず、オランダは攻撃されずに済んだ。 その理由は、単にドイツにとってオランダに攻め込むだけの兵力が不足していたからだった。  戦争中、オランダは総動員体制をとり続け、隣国ベルギーから多くの難民を受け入れた。  戦後はオランダも他国同様に世界恐慌に巻き込まれ、一時ファシズム勢力が台頭したが、支持が広がることはなかった。 ナチス=ドイツの脅威の強まる中、オランダはウィルヘルミナ女王が1939年8月、厳正中立を守ることを宣言。 しかし、第二次世界大戦が始まると、翌1940年5月10日、ヒトラーのナチス=ドイツは、宣戦布告なしにオランダとベルギーに同時に侵攻した。 数日持ちこたえれば英仏の軍隊の援軍が到着すると言う、オランダの楽観的な考えは最初の3日間の戦闘では説得力のあるものだった。 状況の展開が早すぎ、様々な情報が不足していた。 オランダ軍は、様々な場所でのドイツ軍を遅延させる試みに成功をしたが、ドイツ軍の進撃速度は非常に速かった。 そして、いくら待ってもイギリス軍とフランス軍はやってこなかった。 ドイツ軍がハーグに迫ったため、13日、女王一家と閣僚はイギリスに避難し、オランダ軍総司令官ウィンケルマンに全権を委任した。 5月14日夜、ロッテルダムは空爆を受け、爆弾の大部分は市の中心部に着弾した。 一部は港湾部の植物油タンクに命中して火災を発生させ、市街地への延焼を招いた。 その結果、中心部の2.6平方kmが焼け野原になり、家屋24,978戸、24個所の教会、2,320軒の商店、775棟の倉庫、62個所の学校が破壊された。 正確な人的被害は不明であるが、800~900人が死亡し、8万人が住居を失ったと推定されている。 ロッテルダムは陥落。  オランダ軍は抵抗を試みたが、主要都市ロッテルダムが猛爆撃を受けて壊滅したのを見て、抵抗するのを止めた。 政府とウィルヘルミナ女王一家はイギリスに亡命し、5月15日降伏した。 5月11日にイギリス首相となったチャーチルはダンケルクからの撤退を決定、1940年5月27日から開始して6月4日に完了、オランダ、ベルギーはドイツ軍の占領下に入った。 ロッテルダム爆撃を理由に、イギリス空軍も都市爆撃を開始した。 イギリス空軍による最初のドイツ都市の爆撃は、5月15日夜に行われている。 ウィルヘルミナ女王はロンドンからラジオ放送を通じて国民に抵抗を呼びかけた。 364f1be8-bc5a-4f23-b220-066da1494787 (爆撃後のロッテルダム) 4e8bab29-14cf-4543-bf00-225584acc05d (ロンドンからラジオ放送で抵抗を呼び掛けるウィルヘルミナ女王) 1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。 オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富だった。 2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏した。 そして4万人ものオランダ兵が捕虜として収容所に連行された。 インドネシアに住んでいたオランダ人の一般市民も強制労働キャンプに移送され、遠くは長崎や北九州の炭坑に連れられて行った。
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