スターチス

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スターチス

 午後十時。中学一年生の久保田優真(くぼたゆうま)は入浴を済ませ、一人テレビゲームをしながら母親の帰りを待っていた。  この家に父親はいない。三年前に両親が離婚して父親が出て行って以来、2LDKのマンションで母子二人暮らしだ。  母の明子(あきこ)は今年度から看護師長になったことで今までよりも残業が増え、優真は一人自宅で過ごす時間が多くなった。  だが特別それを寂しいとは思わなかった。両親が離婚していわゆる「鍵っ子」となって早三年である。一人で親の帰りを待つことにはいい加減慣れており、また優真自身インドア派なもので自宅で自由に過ごせるのは実に快適なことだと満喫するまでになっていた。 「今日は帰ってくる前に寝ちゃうかな?」  十時五分を指している壁掛け時計を見て一人ごちる。  なるべくなら疲れて帰ってくる母を出迎えてあげたい。そして自分が作った夕飯を温かい状態で食べさせてあげたいと常々思っている。  しかしまだ自分は中学一年生であまり夜更かしすると翌日に響くことも理解している。それはなるべくなら避けたい事態だ。なぜなら翌日の朝食も優真が用意しなければならないのだから。  明子の帰宅時間は十月に入ってからますます読めなくなってきていて、明子自身も「何時に帰れるかわからない」が口癖のようになっていた。優真はそうして激務から帰ってきた母を家ではなるべく煩わしいことから解放してやり、休息をとってもらうことを己の行動指針としている。  できた息子を演じたいわけでもなく、家族の一員としてそうすることが当たり前だと思っているのだ。  十時三十分までに明子が帰ってこなければ今日の夕飯は器によそってラップをかけて、もう歯を磨いて寝てしまおう。遅くまで起きているほうが心配させてしまうだろうから。  まだ十二歳の中学生はゲームのNPCと戦う手を止めることなく段取りを組み立て、さあ明日の朝食と夕食は何にしようかと冷蔵庫の中身を思い返して献立作りに頭を切り替えたのだった。  十時二十三分、明子が帰宅した。玄関扉の鍵を開ける音が聞こえると、優真はすぐさま肉じゃがと味噌汁の鍋が乗ったコンロを点火してから玄関まで母を出迎えた。  肩甲骨までの長さの黒髪を一つに束ね、化粧っ気のない明子は壁に寄りかかり靴を脱いでいた。 「おかえり。お疲れ様」 「ただいま。まだ起きてたの」 「まだ十時台だよ。中学生なら普通だよ」 「そう。そうね。中学生だもんね」  どうにも母は未だに自分のことを小学生のような扱いをすることがある。もう中学に進学して半年経っているのだが、母親にとってはいつまでも子供であることに変わりはないのだろう。  今日も疲れ切った様子の母を伺いながら、優真は努めて明るく会話を運ぶ。 「今日は夕飯肉じゃがだよ。食べる?先お風呂がいい?」 「先にご飯もらおうかな」 「今温めなおしてるからちょっとだけ待ってね」 「ありがとう」  帰宅直後は少し険のある表情だった明子も、にこにこと出迎える優真に表情を緩めて答えた。  およそ中学生の息子とその母らしくない会話を交わしているが、これが久保田家の日常だ。  明子が食べている間に優真は残った肉じゃがはタッパーに移して鍋を洗い、炊飯器のご飯は翌朝の朝食用に茶碗によそう。夕食時はあまり会話を交わさない。  以前はたとえ夕食時間がずれてもお茶とお菓子で付き合い、主に優真が今日あった出来事や学校行事の予定を話していたのだが、時々生返事で返す明子を見て「仕事から疲れて帰ってきたのに他愛ない話を聞かされたところで、反応することさえも疲れるだろう」と話すのをやめた。  余計なエネルギーを使わせたくないという優真なりの気遣いだった。  学校からのお知らせプリントは冷蔵庫にマグネットで貼り、行事予定やスケジュールは壁掛けのカレンダーで共有する。それが久保田家の情報共有方法だ。  今日もご飯茶碗と箸を持ちながら今にも船を漕ぎださんばかりの母親を見て、それでもなお「聞いて聞いて!今日学校でこんなことがあったよ!」などと無邪気に話しかけるほど優真は子供でもないのだ。 「お母さん。眠いならもうお風呂入る?」 「ん……ううん。ちゃんと食べる……」  目をしばたたかせて再起動した明子がもそもそと食事を再開した。母がちゃんと夕飯を食べ終えるか気がかりではあるものの、優真もそろそろ寝なければならない時間である。風呂の追い炊き機能ボタンを押した。 「お風呂の追い炊き始めたからね。あ、食器は流しに置いといていいよ。明日まとめて洗うから」 「うん」 「明日は日勤だよね?」 「そう」  言葉数が少ないながらも会話が成立しているので、意識が保たれていることに安堵する。 「じゃあ朝ご飯一緒に食べられるね。僕はもう寝ちゃうけどちゃんと髪乾かして寝るんだよ」 「優真」 「うん?」  自室の引き戸に手をかけたとき、おもむろに母から声をかけられた。振り返った優真に明子はしっかりと目線を合わせ、 「いつもありがとうね」 「……どういたしまして」  さっきまでうつらうつらしていた母に改まって言われてしまい少し気恥ずかしさを感じながら、バイバイと手を振り部屋に入る。  いつもありがとう。今ほど言われたお礼の言葉がじわじわと体に染み渡り、たまらずベッドにダイブした。そしてにやけてゆるんだ頬を触る。  久保田家の家事を取り仕切る優真にとって、お礼を言われることが一番嬉しい瞬間なのだ。
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