スターチス

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 久保田家の家事全般はほとんど全てを優真が取り仕切っている。  離婚した当初はまだ優真が小学四年生だったため、明子の勤務時間は日勤のみで、たまに残業があっても夕方には帰宅できていた。  しかし年々残業する日が増え、シフトの都合もあり夜中に帰宅する日も出てきた。あいにく明子の両親は電車や車で1時間ほどの距離に住んでいるため、気軽に手を借りられる関係とは言えなかった。  そうなると必然的に優真は一人で留守番する時間が多くなり、食事は買ってきた弁当や買い置きの冷凍食品を食べることが多くなった。当初は明子も作り置きの料理を電子レンジで温めるよう書き置きを残していたが、日々変化する出勤時間と労働時間に追われ、日に日に家事をする労力が負担になっていたのだ。  やがて優真は気づいた。家にいる時間が一番長いのは自分だ。ならばただ母の帰りを待つのではなく、自分が掃除や洗濯や料理など家事をすれば良いのではないかと。  当時小学五年生になっていた優真はちょうど家庭科の授業でいくらか家事について学んでおり、実に名案が浮かんだものだと早速母に提案した。 「優真が家事するの?」 「うん!お母さんが帰ってくるのを待ってる間に掃除も洗濯も料理も僕がやればいいんだよ!今まで気づかなくてごめんね?これから頑張るから!」 「ちょ、ちょっと待って。家事全部やるつもり?」 「うん!」 「えー……っと」  優真は我ながらあれはひどく母を困らせる提案だったなと、たまに思い返しては苦笑する。  明子は見るからに目を逸らして「そのやる気と提案は嬉しいし正直助かるものではあるが、家事素人の小学生がどこまでできるかという問題と不在時に何か事故が起こりはしないかという心配と、それを本人のやる気を削がないように上手く段階的なステップアップを提唱をするにはどうしたものか」という戸惑いがありありとその顔に浮かんでいたのである。  当時の優真は同学年の中でも背が低く小柄であった(今も平均値ぐらいで高いとは言えないが)。家事をするには不向きで不便であることは確かだったのだ。  それに幼稚園児の頃にクッキー作りなどお遊びの延長でお菓子作りをしたことはあっても、包丁を握らせたりましてやコンロの火を扱わせたことはなかった母の心配は当然であった。  少しの間を置いて明子は微笑みながら息子に向き合った。 「そうねえ。まずは洗濯からお願いしようかな」 「他は?」 「まず洗濯してそれを取り込んで、畳んで洗濯物を仕舞うところまで一人で出来るようになったら、次は掃除をお願いしようかな」 「ええー」  思っていたのと違う。物足りない。と優真は抗議の声を上げた。優真がやりたいのは子供のお手伝いレベルの話ではなく、限られた時間でテキパキ動いて、帰ってきた母がもう何もすることがない状態にしたいのだ。  息子がそんな理想と野望を抱いているとはつゆ知らず、一足飛びに逸る優真を母はどうどうと宥める。 「気持ちは嬉しいけど今までお母さんと一緒にやってこなかったでしょう。いきなり全部一人で、はお母さんもちょっと心配なのよ。優真だってお友達を遊びたい日もあるでしょ?少しずつできることを増やしていくほうがお母さんは安心かな」  ね?と優しく微笑まれては何も言えない。優真のやる気は十分だが、実務経験が足りないのは明らかだ。それならばせめて、と経験のあることを提案してみる。 「じゃあお米研いで炊飯器にセットするのは?それは家庭科でやったよ?」 「うーん……じゃあ、それはお願いしようかな。優真の好きな時間に炊いていいから」 「やったー」  久保田家の食生活改善の第一歩である。  優真が物干し竿に届くようまずはホームセンターで踏み台を購入し、何度か母と一緒に洗濯、取り込み、衣類の片付けという一連の流れを繰り返した。幸いにも優真は飲み込みが早く、また家事をすることにより家の中が片付く様に達成感を覚える家事適正の高い子供だった。  素材が違うものや洗濯マーク、季節ものはクリーニングに出して回収することも覚え、程なくして風呂掃除とトイレ掃除も任されるようになり、曜日ごとのゴミ出しをもマスターしてしまった。 「おかえり!今日はねえ、トイレ掃除とお風呂掃除やったよ。それと洗濯物乾いてたから取り込んで畳んで仕舞ってあるし、ご飯はもうすぐ炊けるからね」  小学五年の終わり頃には、明子が帰宅すると優真は学校から帰宅後にどれだけ家事をやったかを報告するのが日課になっていた。  にこにこと達成感に満ちあふれた息子を見て、明子はその成長ぶりに嬉しそうな表情をするも、どこか申し訳なさそうな顔もするのだった。 「優真ありがとう。でもたまには家事は置いておいて、お友達と遊んできてもいいんだからね」 「たまに遊んでるよー。お母さんが帰ってくるまでにちゃんと帰って家事してるだけだよ?」 「それならいいけど。無理はしないでね」 「してないってば」    友達がいないと思われただろうか。心外だ。確かに友人は少ない方ではあるが、たまに友人の家に遊びに行ったり宿題を一緒にやっていることもあるというのに。  ただ高学年ともなると下校後は習い事や塾を優先する同級生が多いため、あまり遊ぶ回数が多くはないのも確かである。  優真が玄関からダイニングへ場所を移しながら説明する。 「みんな習い事とか塾に行く子が多いんだよね。だから遊んでる回数は少ないかも」 「習い事、したい?」 (しまった)  これではまるで習い事をしたいとねだっているようではないか。現に母が伺うような視線を向けてきている。  優真は習い事に微塵も興味がないというのに。一人でのびのびと自宅で過ごせるこの快適な環境に適応しているというのに。  それにおぼろげながらではあるが、母子家庭の生活にそれほど余裕はないだろうと優真は感じていた。  実際は父親からの養育費とフルタイムの看護師として働く明子の給料を合わせれば、そこまで余裕がないこともないのだが。そこは小学生。家庭の収支状況まではわからない。 「嫌だよ習い事なんて。僕は帰ってきてマイペースに家事したりゲームしたりテレビ観たり、自由気ままに過ごすのが気に入ってるんだから」  習い事なんてとんでもない、とぶんぶん首を振っていかに快適に過ごしているかを力説すると、母はちょっと笑って納得してくれた。 「そっか。優真はお家大好きだもんね」 「そうだよ。僕だってこう見えて毎日楽しく暮らしてるんだよ」 「ごめんね。家事が負担になっているんじゃないかなって気になったの」  明子が帰り道スーパーに寄って買ってきた、買い物袋の中身を二人で冷蔵庫に移しながら優真の主張は続く。 「もう家事も慣れたもんだよ。今はゲームの課題みたいにいかに効率的に家事をクリアするか常に考えてやってるんだから。取り上げないでよ」 「楽しんでやってるんだ。立派な主夫だね」 「でしょう?」  ふふん。とわざとらしく胸を張ると母が頭を撫でてくれた。 「今度お母さんが休みの日に一緒に料理してみようか」 「いいの!」  ついに家事の最終段階、料理の解禁だ。このときを待ち望んでいた優真は、日々料理番組を観て知識とシミュレーションだけは重ねているのだった。  瞳を輝かせる優真に母は苦笑しつつ念押しする。 「しばらくは一緒にね。一緒に」 「目標はねー、お母さんが帰ってきたときに一汁三菜食卓に並べること!」 「……目標は高い方がいいって言うしね」 「そんなに遠いかな!?」 「料理は奥が深いのよ」  母の憂いとは裏腹に、持ち前のひたむきさと持て余した時間観ていた料理番組のおかげで、優真が料理にも適正があると判明するのはそう遠くなかった。
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