おもひでぼろぼろ

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おもひでぼろぼろ

 7月21日アサガオの種をまきました22日水をやりました23日水をやりました24日水をやりました…のような、起伏の無い観察記録。それがこのメニョ日記であるが、どうやら100回に達したようだ。我ながら、暇人だ。  折角なので、昔ばなしでもしてみようと思う。  何しろ、今私の周りは夏。猛烈に暑いのだ。私も、身の丈四尺の飼いネコメニョも、何をする気も起きない。7月21日メニョは寝ている22日メニョは寝ている23日メニョは寝ている…では、さしもの私も書く気が起きない。だから、美しい過去の記憶で気を紛らわすという次第。  かれこれ、8年程前にさかのぼる。過ごしやすい初夏の爽やかさに濁りが生じ、梅雨に入ろうかなどうしようかなという雨が降りだす頃。私は今と変わらぬしがないサラリーマンではあったが、たまさか狭い借り住まいを離れて実家に戻っていた。  ある日、突然うどんを食べたくなった私は、そぼ降る雨の中傘を広げて家の外に出た。実家は一軒家ではあるが、田舎のぽつんではない。我が家の目と鼻の先にはお隣さんの裏側がある。我が家との間の狭い空間には、勝手に生えた南天やら何やらよく分からない植物がもさもさ茂っている。お隣さんとの合意に基づき、伸びた枝はこちらで切って良いことになっている。いや、むしろそうしてほしいと言われている。本格的な夏の前に少し切っておかなきゃな、と私は植物群に近付いた。 「しゃーっ」  足元から変な音が聞こえた。生き物の呼吸音のようだが、はてな。私は傘をさしたまま、地面を見下ろした。植物群の根元、落ち葉が溜まって、なおかつ雨露のしのげる場所に灰色しましまのネコがいた。誰がどう見ても私に対して敵意むき出しである。牙もむき出しだ。 「何故そう私を嫌うのか。困っちまうぜ。」 ぷうぷうと私は文句を言った。苛めたわけでもないのに、私の顔を見るなり鬼の形相を取らなくたって良かろうに。繊細な私のハートに傷がついたわい。  が、こちらも別段ネコをどうこうする気はない。放っておこう。と思ったところで、ぴいぴいと小さく高い声が聞こえた。もう一度灰色ネコに目を向けると、腹の辺りに別の毛玉がもごもごと蠢いているではないか。小さいものが丸まってさらに小さくなっているので判然としないが、仔ネコだと思われる。 「なあんだ、子どもがいたのか。それじゃあ仕方あるまいな。」  動物に対する愛が溢れて止まない保護活動家ならばすぐさまこの毛玉ファミリーをひっとらえ、然るべき温かな処遇に置くのであろうが、こちとら親子ネコを見かけるのはお初である。そういう愛情も捕縛の技術もなく、然るべき処遇がどんなものかも知らぬ。野生のものは野生に任せよう。人間が下手にちょっかい掛けると、母親が育児放棄するという伝説もあるし。私はくるりと踵を返し、ネコのことなど忘れてうどんを啜りに出かけた。  これが、わたしとメニョとの出会いである。  え。メニョがいないって?  いるいる。灰色の方ではない。仔ネコの方だ。この頃は縞模様も曖昧で、白と黒のツートンカラーの毛玉にしか見えなかったし、サイズも他のきょうだいネコと同様であった。  …と思う。今の巨大なメニョを見ていると、少し己の記憶が怪しく思えるのだが。  とにもかくにも、この毛玉ファミリーはしばらくの間同じ場所に滞在していた。が、灰色は私を見るたびに律義に威嚇を行うし、チビどもは母の乳首にしか興味が無い。ネコどもと私との距離は1ミリも縮むことなく絶対的に保たれたまであった。  そんなこんなしているうちに、ふと気づくと毛玉ファミリーは姿を消していた。何しろ、我が家の住人が外に出ようとすると必ず目が合う位置に居を構えていたのだ。乳飲み子の育成には落ち着かない環境だったのだろう。どこかに引っ越したに違いない。  いないものはやがて記憶からも遠のく。私の中のネコの思い出は、つまらない日常の繰り返しに上書きされてやがて消えてしまった。  え。メニョが消えたって?  まあ、そうなのだ。一目惚れとか、天の啓示とか、そういう劇的な出会いと絆は我々の間には生じなかった。梅田駅ですれ違った見知らぬおにいさんと同じくらいの関係性である。3秒後には忘れておる。  そうして、1月余りたった頃だろうか。梅雨が明け、クマゼミが爆音で朝を支配し、生命の存在を否定するような熱波が町中を覆う夏。私は実家の部屋ででろでろに溶けていた。ああ、実家にもクーラーが無いのだ。いや正確に言えばあるのだが、それは家を建てる前から使っていた40年以上昔のクーラーである。物理的に存在はしているが、空気は冷えない。  というわけで、防犯よりも生命の維持が重要なので、私は窓も戸も開け放って扇風機の庇護のもとに横たわっていたわけだ。当然、外の音がよく聞こえる。クマゼミの騒音に混じって、ぴいぴいと甲高い音が繰り返し響くのに私は気づいた。が、無視した。暑いと私の生物としての機能は著しく低下する。多分、猛獣の唸り声が聞こえてきたって無視したと思う。  しかし、ぴいぴいはしつこかった。クマゼミの声は、電車に乗った時の轟音と同じく、音量の大きな背景音でしかないが、ぴいぴいは異質である。気になる。気になるが、気にする元気が出ない。私はずるずると井戸から這い出る怨霊のような動きで窓ににじり寄った。身を起こして外を眺めたが、取り立てて変わった様子は無い。殺人的な太陽光が地面を焼いているだけだ。が、ぴいぴいはやはり外から聞こえる。  ぐぬう…と唸って、私は体を起こした。身重でもないのに、身が重い。つっかけの踵を引きずりながら私は外に出た。 「そう言えばここに前ネコがいたが…。」  そう呟いて、梅雨頃に毛玉ファミリーのいたゾーンを眺めるが、相変わらず空室である。私は広くもない庭をずるずると周回した。と、ぼうぼうの雑草に紛れて、白黒の毛玉が蠢いているではないか。  そう、これこそが後のメニョである。我々は赤い糸で結ばれた恋人同士のように引き寄せられ、抱き合い、お互いを求めあった。と言いたいところだが、全然そうはならない。だって、野良ネコだもの。  仔ネコは私を見るなり、母の教えを思い出したらしい。つまり、小さいながらにしっかりと威嚇の声を放ってきた。うむ、立派な野良ネコとして育っておるようだ。感心、感心。となると、指導者たる灰色ネコもいるのかなと思ったが、辺りには他にネコはいない。 「ふむ。家族はどうしたんだ?」 「しゃーっ」 「迷子の迷子のおまわりさん…違った。こねこちゃんだった。それなのか?」 「しゃーっ」 会話が成立する余地はない。まあ、たまたま母ネコとはぐれただけだろう。そのうち、ぴいぴい声を聞きつけた母ネコがお迎えに来るんじゃないのか。  私は野生には関与しない。日向は暑いし、もう扇風機の下に帰ろう。私は仔ネコに背を向けて、とぼとぼ歩きだした。 「ぴーぴー」  振り向くと、足元に毛玉が寄ってきている。おぼつかない足取りで、私を追っているようだ。 「うーむ。インプリンティングか?それにしちゃ、生後日にちが立ちすぎだろ。」 「しゃーっ」 また威嚇。私に付いて行きたいわけではなくて、追い払いたいだけか。  はいはい。じゃあ、お邪魔な人間はいなくなりますよ。ヒトがいなくなりゃ、あの警戒心の強い灰色ネコも出てきやすかろう。私はまた毛玉に背を向けた。が、そうするとまた毛玉がよたよたと足元に寄ってくる。 「何がしたいんだ、お前は。」 「しゃー」 威嚇に元気がない。そりゃまあ、仔ネコだって炎天下じゃあ気力も続くまい。私はこのくたびれて小汚い毛玉が少し気の毒になった。私は毛玉に手を伸ばした。威嚇音の割に、毛玉は何の抵抗もなくひょいと掴まってしまう。こちょこちょと頭を指で掻いてやると、たちまちごろごろ言いおる。まだまだ野良ネコとしての訓練は足りないようだ。  おっと。あんまり触ってヒト臭くなると良くないかもしれない。私は日陰の草地に仔ネコを置いた。 「そのうち母ちゃんが迎えに来るだろ。じっと待ってなさい。」 「しゃー」  はい、はい。気に入らんなら、寄って来なきゃ良かろうに。  私はそうして、またぞろつっかけを引きずりながら玄関まで戻った。表面の塗装の禿げたドアノブに手を伸ばしたところで念のため振り返る。と、やっぱりというべきか、ガッカリというべきか、先ほどの毛玉がしつこくよたよた付いてきていた。 「我が家はクーラーがございませんので、お客様をお上げしても涼しくないですよ。」 「しゃー」 「ネコ乳も無いぞ。」 「しゃー」  足元で微妙な距離を保ったままふぬけた威嚇ばかりするので、私もいい加減面倒くさくなってきた。 「あのなあ。人にものを頼むなら、相応の態度を示しなさい。しゃーは挨拶ではない。よろしくお願いします、とこう言うんだ。」 手のひらサイズの乳飲み子に教え諭す内容ではない。が、こちらも日向で脳みそが蒸発している。まともな思考は不能だ。  ところがどっこい、子ネコは急に押し黙った。そしてぱかっと口を開けて、一言。 「ぴあー」 む。よろしくお願いします、と言ったつもりか。そんな、まさかね。  とはいえ、子ネコは神妙な様子でこちらを窺っている。ネコの知能のほどはよく知らないが、ヒトならば一人で歩き回れるほどの年齢ともなれば多少の社交辞令は言えるものである。うむむ。相手がネコとは言え、幼子に礼を尽くされて無視するのは、いい大人としていかがなものか。 「しょうがない。陽が落ちて多少涼しくなるまで、休んでいきなさい。」 私は毛玉を拾い上げて、家に入った。  これが、私とメニョの第二コンタクトである。  それ以来メニョはずっと私の暮らす家に同居してる。と言いたいところだが、そうでもない。私は宣言したとおり、夕方には子ネコを外に追いやったのである。  野生は野生に。保護と称して無暗に餌付けしたりどんぐりを山に撒いたりしてはいけません。これが私の考えである。そして、仔ネコも外に出るや否やすたすたとどこかに歩いて行った。屋内で休んで元気が出たので、母ネコと暮らす場所に戻るのだろう。  かくの如く、私とメニョは初っ端は非常に塩辛い関係であった。目が合った瞬間に電気が走るとか、運命を感じるとか、人生で一度くらいはそういう経験をしてみたいものである。が、生憎と、私にもメニョにもそういうのは無かったわけだ。 「不思議なもんだなあ。」 「ふあー」  私はすっかり巨大になったメニョの腹を揉む。あの頃のメニョの何倍のサイズになったのやら。ふすふすと匂いを嗅ぐと、陽だまりの甘い良い香り。  まあ、なんだ。終わり良ければ総て良しである。まだ終わってないけど。私はメニョのどぶといしっぽをにぎにぎしながら、続きの追憶に耽るのであった。
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