魅惑の舟

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魅惑の舟

 社会人として生活のために労働を続けてはや何年。精神的な充足感は大いにマイナスであり、毎日の半分近くの時間をこの下らない行為に費やす私の人生に意味は無いと断言できる。無論、労働しないとしても私の人生がいきなり有意義になることは無いが、心は安らかに満ち足りる。同じ無意味なら、摩耗しきった無意味よりは満足できる無意味になりたいものだ。  と、まあ、こんなことを自分で考えるのは問題ない。しかし、他人に言われるとムッとくるのが小人というものであり、私もまた小人である。 「沢田さんって何が楽しくて生きてるんですか。」  行きたくもない会社に行った挙句、コンビニの蕎麦にこんもりとマイ・おかかを載せて啜る同僚から唐突にこう問われ、微笑み絶やさずにいられるとしたらそいつは聖人だ。生憎と凡俗な私は不快になり、押し黙った。返答する価値が無い。 「そのお弁当から察するに、グルメに興味はない。休みを取っても、旅行に行くでもなし、趣味の話も聞かない。仕事大好きってタイプでもないですし。」  失敬な。私の昼食は日々身の丈四尺の飼いネコであるメニョがこさえる、愛情たっぷり美味弁当である。金をかけて贅を凝らした外食を楽しむのだけがグルメではない。今日のメニョ弁には昨晩のポトフの残りの具材が詰め込まれている。何しろ、目測を誤ったメニョが具を入れ過ぎ、芋、キノコ、ニンジン、ソーセージなどがゴロゴロ余ったのである。汁を切ってちょいと塩コショウして弁当に詰めれば、ステキなおかずではないか。残り物を有効活用するこの賢さたるや、ランチで万札をもぎ取る高級寿司屋だって平伏して然るべきであろう。  とはいえ、隣の同僚の発言には真理も含まれる。一つ、私は仕事が好きではない。もう一つ、最近旅行に行っていない。  旅行は好きだ。特に温泉は良い。広い湯船で手足を伸ばし、ウーとかアーとか呻くのは最高である。若い頃はよくぷらりと1、2泊の旅行に出ていた。それが、最近はめっきりご無沙汰だ。 「メニョ、旅行に行こうかねえ。」  帰宅し、夕食をむしゃむしゃしていた私はふと思い出して呟いた。既に自分のどんぶりを空にしていたメニョは、毛づくろいを続行しながら答える。 「ぬー」 「まあ、そうだよな。ネコはおうちが一番だもんなあ。」  イヌは時折ヒトと一緒に旅行する。高速道路のサービスエリアや観光地、あるいは山のてっぺんでイヌと遭遇したことは私にもある。が、飼いネコは外ではあまり見ない。イヌは人に付きネコは家に付くとも言うし、ネコはインドアというか、イン縄張り派なのだろう。  とはいえ、メニョと旅行か。私はたくあんを噛みしめながら夢想する。いいなあ。ネコであるメニョが温泉にどぶんと浸かることは無いだろうが、古都をメニョとぶらぶらしたり、一緒にハイキングをしたり、海鮮串焼きを屋台で買い求めてメニョと分かち合ったり。いいなあ。いいなあ。 「メニョ~。一緒に旅行に行こうよ~。」 「ぬーん」  メニョは興味なしのご様子。毛づくろいを終え、風通しの良い窓辺でごろりと伸びてしまった。そよそよと腹のもふ毛が揺れ、私を誘う。私は衝動的にメニョに襲い掛かり、その柔らかな腹に顔を埋めた。もにもに、良い手ごたえ。ふすふす、良い香り。こうしていると、他の煩悩を忘れてしまう。こうして、旅行などは後回しになるのである。  いやしかし。今日は私も少ししつこいぞ。私は起き上がってタブレットを持ち出し、てしてしと操作した。 「ほれほれ、このお刺身舟盛りとかどうよ。海っぱたは魚が旨いぞ。」 ついでに温泉が出る地域もある。が、この点はメニョには取り立てて魅力的ではないはずなので、伏せておく。 「一人前でこの量だって。メニョに手伝ってもらわないと、食べきれないなあ。」 「ふあー」  画面いっぱいのきときとの刺身に、メニョの眼が輝く。私もじゅるりとよだれを覚える。近所の魚屋の刺身も旨いが、旅先で食べる地の物はまた格別である。鮫皮でわさびをおろし、新鮮な刺身で地酒を一献傾ければ、地上の天国の出来上がりではないか。〆には残った刺身で茶漬けというのも一興である。 「行きたくなってきただろ。お魚以外にも色んな名物があるぞ。」 「なあーん」  よしよし。メニョも興味津々だ。昨今はペット同伴可の宿もある。メニョさえ行く気なら、一緒に旅行だって夢ではない。私の脳内には、温泉街をそぞろ歩き、ふかしたてのまんじゅうをメニョと半分こする光景まで浮かんできた。和菓子好きのメニョなら、温泉まんじゅうは絶対に食いつくだろう。メニョの嫌いな餅じゃないし。  調子に乗った私は、具体的に路線検索をしてみた。ただ魚を食べるだけなら近場でも済ませられるが、どうせなら温泉も湧いていて欲しい。それに、例年通りの異常な猛暑から逃れて涼しい高地に行きたい。でも、山だと魚が無いからそこは諦めるか。となると。 「えーと、ここなら、新幹線と在来線で数時間ってところか。最後にバスが少々…。」 「ぬあ」 「ん?どうかしたか。」  折角調べたのに、メニョがぷいんとしっぽを振っている。何かご不満なのか。 「割と近いじゃん。メニョと泊まれる宿もあるみたいだぞ。」 「ぬー」 「もしかして、電車は嫌か。」 「にや」 ふーむ。そんな気はした。だって、ネコだもの。 「少しの間じっとしてるだけだろ。まあ、電車ではケージに入れざるを得ないけど…。」 「うぬー」 「そんなら、レンタカー借りて、私の運転で行くか。」 「…」 思い切った提案をしたのに、メニョったら返事すらしてくれない。  まあ、確かに、私も自動車の運転なんてしたくはない。私は、金色のペーパードライバー免許証を幾度も更新している身である。いきなり遠距離運転なんぞしたら、命がいくつあっても足りやしない。無論、その命には私やメニョだけではなく、まだ見ぬ他者のものが含まれるのだから厄介極まりない。  やれやれ。メニョとの旅行は無理かなあ。でも、行きたいなあ。 「どこでもドアがあればなあ。」 私はごろりとぬるいフローリングの上に寝転がり、ぼやいた。どこでもドアよりは、私の自動車運転技術を人並まで高める方が楽か。そのためには車を買って、駐車場を契約して、定期的に運転して、いやその前にペーパードライバー講習を何度か受けた方が良いだろうな…ああ、面倒くさいし、物入りに過ぎる。 「んあ」  メニョの足音が聞こえたと思ったら、ひらりと紙切れが顔の上に落ちてきた。メニョが咥えて持ってきたらしい。私は起き上がってチラシを摘まみ上げた。 「ん、あの魚屋さんのチラシじゃないか。」 「にゃ」 「開店17周年記念セールとな。」 17年って何だよ、セミかいな。と突っ込みつつ、しげしげと眺める。魚は漁と仕入れの都合上、予定通りにセールをしにくいのではないか。と思ったら、やはり値段の書いてある商品は少ない。が、そんな中でひときわ輝く…というかメニョが肉球でアピールするものがあった。 「お刺身舟盛り(小)2000円(大)3000円、内容は仕入れによって変わります、とな。」 「ふなーい」 ふうむ。確かに、これならば電車に乗って数時間揺れる必要もないし、交通費よりもはるかに安い。でもねえ、旅行って、そういうものではないのですよ。  さりとて、これ、結構お買い得ではないのか。あそこの魚屋の刺身はハズレが無いし。チラシを見れば見るほど、ムラムラとしてくる。隣のメニョからキラキラ光線が飛んでくる。ぐぬぬぬ。  こうして翌日、私はメニョに舟盛りを買いに行かせ、仕事帰りに自分で生わさびを買った。(小)でも結構な質と量で、メニョも私もおなか一杯幸せいっぱいになったのであった。思ってたんと違うけど、まあ、いっか。
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