リモートワーク

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リモートワーク

 東京。それは日本の首都。架空の世界では、幾度滅びたことだろうか。現実には、富士山の噴火やら大火やら関東大震災やら、壊滅的な被害をこうむりつつ壊滅したことは無い。人が多い町は実にしぶとい。これが東北の山奥の寒村だったら、たった一度の自然災害で消滅済みだろう。  そんなネトネトにしつこい都市は、私には合わない。まったく、何だこのヒトの多さは。四方八方どちらを向いてもヌーの大群のように人間が押し寄せてくる。もう、嫌だー。  と、新幹線を降りて数分で音を上げた私であるが、給料をもらっている以上その分だけは働く。私は本日、仕事で東京出張なのだ。ただ、必要最低限の用は済ませるが、それ以上は指一本、眉一つ動かすつもりはない。こんな多量の人間でがんじがらめの都市では、動かしようもないではないか。  私は心を無にして用事を片付け、本日の宿に転がり込んだ。とりあえず明日の仕事までは、この部屋に閉じこもっていれば人間を見ずに済む。あああ。観光なんて、無理。もうへとへと。 「そうだ、こんなときは…」  私はベッドの上で溶けたまま携帯電話に手を伸ばした。もて、もて、と不慣れな手つきで我が家の電話を呼び出す。こんな時のために、固定電話も引いてあるのだよ、ふふふ。  数回のコール音の後、留守番電話の応答メッセージが流れてきた。私は案ずることなく、ピーの後に話しかける。 「おーい、メニョーう。」 「ふあー」  わあい。早速聞き慣れた声が耳に届き、私は喜びのあまりごろごろと狭いベッドの上で転がった。声の主は、言うまでもなく、我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョである。  我が家は私とメニョのふたり暮らしだ。良識ある飼い主であれば、泊りで出かけるとなればペットはしかるべき場所に預けるだろう。もしくは、一緒に出掛けてペット可の施設を渡り歩くか。いずれにせよ、ネコ一匹で家に放り出しておくのは無いはずだ。私とて、メニョに留守番させるつもりはなかった。  だが、懸命の説得にもかかわらず、メニョは私との同行を拒み、それ以上の剣幕でペットホテルを拒否した。その結果、私はメニョをひとり家に置いて、こうして首都までやって来ることになった。  さみしい。しょぼん。やる気出ない。自分がこうなることは分かっていたので、メニョに電話に出るように言い含めて出てきたわけだ。我ながら、先見の明ありである。 「ご飯食べたか?」 「にゃー」  電話越しとはいえ、やっぱりメニョは声もかわゆい。これを聞くと聞かないとでは、ストレスの回復量が大違いだ。でも、もふもふしたい。うう。私の中の獣が猛り狂う。今ここにメニョがいればなあ。私は再びベッドの上で転がり、身悶えした。相変わらず、起き上がる気力は生じない。 「私は疲れちゃったよ。メニョがいないし。」 「うあん」 「え、何。お椀?」 「おふあん」 「ごはん?」 「にゃ」 「ああ、私のご飯か。まだ食べてないよ。東京はヒトが多くてさ、外を歩きたくなくてねえ。」  そうなのだ。おなかは空いたけれど、店を探して入って注文して…というのがもうしんどい。牛丼でも立ち食いソバでも何でも良いのだが、何をするにもまず人をかき分けねばならぬのが嫌だ。皆ネコになってくれたらいいのになあ。 「ぬー」  メニョに怒られた。でもなあ。 「うにーい」 「え?うに?寿司屋に行けってか?江戸前寿司ってのも憧れはあるけど…。」 「ぬー」  違うらしい。まあ、寿司ならメニョも食べたがるから、私の一人飯におススメするとは思えないが。なお、メニョは寿司のしゃりはしっかり残すので、寿司は与えず刺身を別途買うことにしている。 「うにいい」  繰り返されたが、ただでさえ不明瞭なメニョの発音が、電波を介することでより一層くぐもる。全く理解できない。何だろう。私は空腹を燃料にして想像をたくましくした。 「おにぎり!」 「にゃ」 やったね。正解だ。 「ふむ、確かに、コンビニならホテルを出てすぐ隣だったな。分かった。買って来るよ。」 「にゃー」 「また後で電話するから、出てくれよ。」 「ふあーああふ」  む。メニョのやつ、今あくびしたな。飼い主様が異土で悄然と気落ちしておられるというのに、一人お留守番のネコがなんとお気楽なことか。ちょっとくらい、寂しがってくれよ。まさか、あれか。亭主元気で留守が良いというやつか。女房と畳は新しい方が良いとか。そ、そんなー。  私はコンビニを徘徊しつつ、自らの妄想でまた悶えた。とはいえ、さすがにコンビニの床の上でゴロゴロ転がるわけにはいかないので、無表情で視線を彷徨わせるだけである。おかげで、買うものが決まらない。  こんなとき、メニョの作る晩ごはんなら何であろうか。そうだな、きっと、丸茹で野菜いっぱいの汁物とご飯だな。よし、じゃあ、具沢山スープとおにぎりと、丸茹で卵にしよう。デザートには、メニョの好物のプリン。ここまで揃えて少し元気が出た私は、ついでにハイボール缶を放り込む。 「あ、そうだ。メニョの監視が無いことだし…。」 私はもう一度冷蔵庫に目を向け、先ほどとは違う銘柄のハイボール缶を取り出した。アルコール摂取量にやかましいメニョがいると、日ごろはたぷんたぷんに飲めない。こういう時くらい羽目を外しても良かろう。そうは言っても、酔っぱらって記憶をなくすような量ではない。私はへべれけレベル34、良識ある飲み方ができるオトナなのだ。  あ、そうなると乾き物も欲しい。私はミックスナッツの小袋も追加し、会計を済ませた。何だかんだでそこそこなお値段になってしまったが、東京で外食したことを思えば微々たるものだろう。  私は意気揚々とホテルの部屋に戻り、またぞろ電話に手を伸ばした。 「メニョ―、ご飯買って来たぞう。」 「ういー」 律儀にメニョが応答してくれる。うう、なんて良いやつなんだ。と言いつつ、ぷしっと缶を開けてコップに注ぎ、グーッと一口飲む。ふいー。メニョの声を聞きながらのこの一杯があるから生きていられる。  だが、耳聡いメニョは私のこのささやかな背徳行為を聞きつけたらしい。 「ぬううう」 低く唸りやがる。 「ご安心ください、1缶だけですよ。」 私はさらりと誤魔化す。skypeとか、画像出る系でなくて良かった。 「ぬう」 「大丈夫、大丈夫。おにぎりも食べてるよ。塩ネギ鯖だって。ふむ、まあまあかな。」 「…」 「茹で卵もあるぞ。でも、メニョが作る方が、塩気がマイルドで美味しいな。」 「…」 どうも、酒に関してまだ疑われている気がする。私は残りの1缶には触れぬよう、細心の注意を払う。うっかり缶の音を立てたら、リモートで天誅が下される気がする。メニョならそれくらいやりかねん。  しかし、最初の缶は喉の渇きも手伝ってあっという間に飲んでしまった。ぬるくなる前に次のを飲みたい。むむむ。こうなったら、意を決して開けるか。私は顎と肩で電話を挟み、缶を持った両腕を伸ばし、ゆっくりとプルタブを引いた。プシュッとは程遠い、微かなガス漏れの音が鳴る。これなら、電話越しなら分からないのではないか。 「うぬー」 なんと。即バレた。 「まあ、まあ。今日は、お疲れでゴンス。東京には空が無い。」 「うぬー」 メニョの低い文句を残し、電話がぷつッと切れた。んもう。何というネコだ。  私は缶を机に置き、携帯電話を柔らかな枕の上にぽいと放り投げた。やれやれ。まあ、メニョとの会話は堪能したか。後は残りの缶を飲んで、風呂入って寝るだけだから、我慢我慢。それに、どんなにメニョが自宅で文句を言ったところで、このハイボールが消えてなくなるわけではない。のんびり頂こうではないか。おっと、ミックスナッツも開けようかな。 「わ」  袋を開けた手が勢い余ってコップにぶつかった。コップはあえなく倒れ、7割ほど入っていた液体がシュワシュワと泡立ちながら机の上に池を成す。 「わあああん。」 私は超特急で風呂場のタオルを持ってきて、泣きながら机の上を拭いた。ああ、折角の2缶目が。なんてこったい。消えるはずのなかったハイボールが、見事に消失してしまったではないか。1缶丸ごと全部ではないが、それでも私の心に十分深い傷跡を残した。  おのれー、メニョめー。やっぱりリモートで私の飲酒を阻止しおったではないか。  こんちきしょう、と言いかけ、私は机の上の缶を眺めた。缶の中にはまだ残っている。またこれを倒して流出させたら、目も当てられない。私は居住まいを正し、パンパンと缶に向かって手を合わせた。 「メニョに言われたお土産、ちゃんと買って帰ります。」 それから、そっとコップにハイボールを注ぎ、慎重に口へ運ぶ。よし。成功。念のため、壁際の倒れにくい位置に安置して。机から少し離れて、ナッツを齧る。うむ。旨い。が、落ち着かない。  結局、無事にハイボールの残りは飲み干せたものの、何となく欲求不満が残った。そのせいか、翌日の私はメニョに指定されたお土産の他に、あれもこれもとメニョの好きそうなものを買い足してしまったのであった。恐るべし、メニョパワー。
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