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私の名前は虹あやめ。
朝、目覚めて確認すること。今日の日付、交通状況。電車は遅延していないか、会社の付近で通行止めが起きていないか。それから1日の大まかなスケジュール。特に休み明けは頭がぼうっとして、やるべきことが抜けていたりするから要注意だ。
毎朝同じ手順で化粧をし、同じ情報番組を見て、同じ時間に家を出る。毎日毎日同じ場面の巻き戻し再生だ。そこに満足や不満足はなかった。覚えた動作を繰り返していないと、ある日突然手から足から壊れていくのではないかと、心配だったのだ。
おかしい。綿密に計算し尽くした時間に目覚ましをセットしても、私は常にホームを走っている。駅員がこれ以上は無理だと合図するのを無視して身体をねじ込ませた。5分でも逃すと遅刻になってしまう。上司に怒られることに比べたら、駅員の迷惑そうな顔や怒号なんてなんとも思わない。
あ? 入ってくんなよ。と言いたげに先客が睨む。この場の誰も私を歓迎していなかった。なんとでも言うがいい。ドアさえ閉まればこっちのものだ。私はいつも通り目を閉じて無になる。右腕は捻れて背中に回っていたが、もはや元に戻すことはできなかった。3駅の辛抱だ。
(ん?)
えもいわれぬ良い香りが私を包む。花のような、いやもっと力強さがあるか?
満員電車では振り返ることもできないので、ドアのガラス越しに背後の人物の顔を見た。
この世に絶世の美男子というものが存在すると、私は初めて知った。テレビでイケメンとされる青年が微笑もうが踊りたくろうが、晩酌の共になるくらいのものだったが、文字通り目を奪われた。
色白の広いおでこ、一本筋の通った鼻、形のいい眉、伏せられた切れ長の大きな瞳、つややかな黒髪。顎や口元は私の頭で隠れている。でもきっと素晴らしいに違いない。
今までこんな美しい人、乗っていたっけ? 乗客の誰も目を伏せるかあらぬ前方を眺めるばかりで彼を見ていない。彼も一心不乱に携帯を見つめている。
ふと、ガラス越しに視線を感じたらしい彼が顔を上げた。私は反射的に顔を俯ける。電車が揺れ、片足で踏ん張った。
(うっ!)
位置がずれ、前へ押された彼といよいよ密着する。それはいいのだが、斜め後ろに回っていた私の右手は、あらぬモノを掴んでいた。もしかして、もしかしなくてもこれは……。
再びガラス越しに彼を観察する。まるで気づいていない。鞄が当たっているとでも思っているのだろう。
無理にでも手を抜こうとすればどうなるものか。それどころか少しでも動かせば違和感に気づいて痴漢扱いされるかもしれない。
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