3/3
前へ
/11ページ
次へ
 玄齢の言は徐孝緒の淀み切った頭に涼風の如く流れた。否、それだけではない。時の賢相房玄齢その人が、この若輩である自分にひと言を伝えんがために、労と時間を割いてここまで足を運んだ事実に彼は感動した。  孝緒は雷に打たれたように一つの理解を得、そこから自身の為すべきことを解釈した。すなわち、この壁を前にして患う我が煩悶(はんもん)()のようなもので、いくら考えても出口はない。もう私は悩みに悩んだではないか。だからその環から抜け出るために、次は力強く動かねばならぬ。私の歩んできた画の道の是非はともかく、少なくとも研鑽した画の技はあまねくこの腕に宿っている。ならば私はこの体の欲するところに従って、その技を表すのみと。  孝緒は数日振りに立ち上がり、廃寺を飛び出て一目散に駆けた。その勢い凄まじく、途中房玄齢の一行を追い抜いたことさえ彼は気づかなかった。そうして城門に至ると、そこから(げき)を一本引ったくって城邑(じょうゆう)の外に出ようとした。  驚いたのは門衛で、孝緒の狼藉を(とが)めんとすれば、そこに現れた梁国公房玄齢がそれを制し、泡を食う門衛に、数人の兵を引き連れて徐孝緒の後に従い彼を守れと厳に命じた。  孝緒は戟を担いでだだっ広い荒野の真ん中に出、地面に戟の柄を突き刺すと、それを引きずりまた駆けた。戟は重く、孝緒は息が切れ汗が吹き出て(あご)から落ちるほどであったが、彼はそれを構わず駆けに駆けた。  そうしてやがて荒野の真ん中まで駆け戻ると、孝緒は精根尽きてその場に倒れ込んだ。離れて見ていた兵の何人かが孝緒の元に駆け寄ろうとすると、彼はそれを強く制した。そして、そこの岡に登って大地を見よと言った。  兵の一人が岡から大地を望むと、そこには天から眺めなければ判然とせぬほどの巨大な竜が描かれていた。  その後、徐孝緒は壁画を描いた。白竜である。描き始めれば、その完成まで迅速であった。太宗は巡幸の途上で房玄齢と共に、孝緒が画竜を観覧した。  太宗は孝緒の画竜の優れていることに感心した。しかし自ら書に通じる太宗は、孝緒の筆の運びと彩色を、やや剛毅にして深みに欠け、僧繇と並列するには僅かに拙と見て取った。ただし、その剛毅は好ましいものでもあった。すなわち孝緒は自身の画竜に睛を入れておらず、太宗はそこにこの若い画家の一方ならぬ矜持を感じ、その気骨を評価したのである。そこで孝緒に、僧繇が二匹の画竜への点睛の儀に三年の期限を与えることとした。  ここにおいて、徐孝緒はようやく画聖産するところの二画竜と正面から向き合うこととなったのである。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加