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「なぜ睛を入れぬのか」  孝緒の頭上にかけられた声の主は画竜であった。 「とてもできませぬ。私は己の未熟な腕で、夫子百年の望みを絶ってしまうかもしれぬのです」  孝緒の言に、画竜は「小さし」と言い、続けた。汝、張師の描いた我らに点睛を果たさんとするは、すなわち利達(りたつ)せんがためかと。それを聞いた孝緒は即座に「否」と呼応した。たしかに私は父母のために利達せんと意気込んでいたと。自身を推挙した房公の恩義に報い、その期待に応えたいと思っていたと。そして巨匠張僧繇に負けまい、何とかその技に並ばんとしていたと。 「しかし、しばらく前からその手のことを微塵も考えなくなっていたのでございます」  孝緒はいつしか、ただこの見事な二画竜に見合う睛を描いて、わずかに不完全であるところのこの画を無欠な画に仕上げることに画家としての生きがいを感じていた。 「それを、今また両師の積年の願いを果たすか絶つかという、画と別の情に囚われているのです」  だが、それがそんなに悪いことなのか。惻隠(そくいん)の情を捨ててまで狂気に走ることは、この徐孝緒にはできぬ。そこまで考えて、孝緒は己の画家としての限界を知った。そして息も絶え絶え(つぶや)いた。我、ただ画を極めんと欲す、と。自分に画の(ことわり)が見えていれば、たちどころに眼前の二師を壁中の束縛から解き放てるものを、と。  孝緒の呟きを聞いた画竜は呵々(かか)として言った。自惚(うぬぼ)れも甚だしければ滑稽であると。そうして画竜は喝として続けた。豎子(じゅし)、聞け。我、壁中にあること百年。その変化なきこと、もはや飽きに飽いたり。睛を加えて何事かが起こるならば一興である。例えそれで自分がただの画になろうともである。それほど一つ所に囚われるというのは、退屈を超えて苦痛なもの。しかるに汝は目も舌も鼻も利いて自由に動かせる四肢もあるというのに、なぜここでうずくまってじっとしているのか。考えるだけならば、壁の中でもできるものを。
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