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打ち合いは佳境に入っていた。――そも、一撃で終わる剣戟に佳境も序盤もないといえばないのだが。
「はぁ――、はぁ――!」
目の前で、防具に身を包んだ少女が息を切らしている。竹刀の構えは青眼。小柄ではあるものの気勢は十分で、身長差を感じさせない。
対して、こちらの構えは――――
「ふざけてる……そんなの!」
『霞の構え』。
水平に倒した刀を自身の顔の横に反射させるように、まっすぐ前向きに携えたこの構えは、通常の剣道の試合で用いられるようなものではない。対・上段に徹した構えではあるが、身を固めるような見た目の通り、相手からすれば非常に攻めづらいものとなる。
長きに渡る実戦経験の中で得た、自分の体現し得る唯一の型らしきものだ。
「あいにく、馬鹿の一つ覚えなもんでな」
これしか知らない。あとはただ、勘と経験で斬り合うのみ。
「……素人だからって、遠慮はしませんよ」
「当然。こちらも全力でいく」
床の一点を穿つ、相手の踏み込み。学生らしからぬ威力でもって大気が弾け、続く面打ちなどはかなり鋭い。
しかし、真正面だ。霞の構えであれば僅かな動作で防ぎ得る。竹刀の衝突する甲高い音色。衝撃が鼓膜を打つ頃には、相手の第二撃が滑り込んできている。
――――胴。
当然、構えの隙を穿ってくるのは道理である。そして、それをこちらが読んでいるのもまた道理。
「發――ッ!」
「!」
斧を振り落とすような一撃で相手の胴打ちを叩き落とし、間髪入れずに落雷の面打ちを放つ。
「つ――!」
かろうじて相手の苦し紛れの防御が間に合う。手元で受け、大きく後退していく。そこで剣線が途切れた。
ほうと思わず息をついてしまうほどの素晴らしい反応だった。あの状況で防ぎきるか。さすが最強少女剣士の名は伊達ではない。
だが、それよりも何よりも、ずっと気にかかっていたことがあったので、自分は思わずそれを口にしていた。
「しかしその……朝比奈、本気なのか? おまえが勝ったら――」
「っ……問答、無用ッ!!」
こちらの問いを掻き消すように、少女が竹刀を打ち込んでくる。
真剣そのもの。心境はさておき、勝負事には甘えを挟まない。生徒会長・朝比奈深雪はそういう人物だ。
(しかし……なぁ……?)
とある深夜、学校の剣道場での出来事。
突然俺に『ある条件で』真剣勝負を持ちかけてきた生徒会長。
それが二年前の話だ。
+
「いいかげんにしてください……!」
業を煮やした少女に叱られていた。教室で突如巻き起こった、腕相撲大会での出来事だった。
ストンと流れたつややかな肩までの黒髪と、日本人形のように凛とした顔つき。朝比奈深雪は美しい。背丈も低くますます人形を連想させる少女だが、印象に反して感情はわりと表に出す方だ。
怒るときは怒る。それが現・生徒会長の性格であった。
「………いい加減とは、どの加減のことだ朝比奈。俺なりに加減はしているつもりなのだが」
「その加減が問題なんです! どうして手加減するんですか、桐生院さん! いつもそうです、あなたは――!」
そうは言われても、たかが腕相撲大会である。賞品もなければ名誉もない。そんな場所で、腕力をひけらかすわけにはいかない事情というものがあるのだ。
教室の注目が集まっている。当然、生徒会長が男子同士の腕相撲の直後に割り込み、なりふり構わず敗北者を罵り出せば驚きもするだろう。俺の対戦相手だった山崎などは、困惑のあまり1秒前の勝利の喜びようも忘れて朝比奈会長を気遣いだす始末だ。
「な……なぁ、生徒会長? 俺、まずかったか? 勝っちゃいけなかったかな?」
「そういうことではありません。ただ――」
依然、朝比奈の目が俺を射る。勝負事にはいつでも真剣。あっち向いてホイにも誇りを賭ける。朝比奈深雪はそういう、ちょっと生真面目なところがある人物だ。
「ああ、もう……分かりました」
何を思いついたのか。
かぶりをふった朝比奈深雪が、一瞬だけ『にまり』と微笑んでこちらを見た。良くない兆候である。案の定、俺の右腕を掴み上げておかしなことを言い出した。
「いいですかみなさん! 桐生院さんは隠れて毎日ジムに通っています! 毎日です! それがバレるのがいやでいまの腕相撲勝負、手加減をしていたんです!」
「何ぃ!? マジか桐生院! 俺は真剣だったのに!」
山崎が、信じられないものを見るように俺を見た。真剣勝負に白熱していた教室中からも不満が噴出する。
手加減なんてずるいぞ桐生院、真面目にやれ。この女たらし。生徒会長とどういう関係だスケコマシ。とっとと付き合え。たまらず朝比奈が叫ぶ。
「あの、みなさん! 関係ないヤジが混ざってませんか!?」
俺としては不服である。
誰がジムになぞ通っているものか。ただ、日がな人目を忍んで深夜徘徊しているだけだ。
しかしながら、口に出せない事情というものもある。
「……分かった。再戦しよう山崎。今度は真剣にやる。これで満足か、生徒会長?」
にっこりと生徒会長が笑う。真剣勝負が始まる合図の直前、俺の耳元に顔を寄せ、俺だけに聞こえるように囁いてきた。
「――この、嘘つきさん。いつもの『妖怪退治』より簡単でしょう?」
「………………」
思わず、少しばかり力が入ってしまった。
+
生徒会長、朝比奈深雪。
文武両道、容姿端麗、大人しそうな見た目に反して議論にも強く、その言葉は剣のように鋭い。
何を隠そう、全国大会レベルの剣道少女なのである。所作も美しく、礼儀も正しく、非の打ち所がない、というのが世間の彼女への評価であろう。誰にでも優しい、お手本のような良き生徒会長なのである。
俺自身もそういった感想を抱いている。ただ一点、そうほんの一点のみ嘘が混じっているが。
「桐生院さん、部活動に入ってください。部活動に入るのは生徒の義務です。さぁ、いますぐこの入部届に捺印して剣道部へ入りましょう。入らなければしかるべき場所で深夜徘徊のことを公表します」
頭痛がした。ある、下校時の自転車置き場でのことだった。長い授業から開放され、そそくさと逃げ出すように帰路につこうとしたら捕まった。少女は悪びれた風もなく、その完成済み書類を差し出してくる。
「……なぜ、入部届にすでに俺の氏名が書いてある。剣道部に入るという話も一言もしていないが」
「えっ?」
書類に不備でもあったろうか、と少女が紙面を見つめる。なるほどなるほどと吟味してから、小鳥のように可愛らしく小首をかしげ、微笑んでみせた。
「校長にもバラしますよ?」
脅迫を。まったく何の悪びれもなく、脅迫をかけてきたのだ。
「帰る。」
「そうですか。奇遇ですね、私も帰るところなんです。ほらカバン」
「だが帰りにマクドへ寄るので、朝比奈とは帰り道が違う」
「そうなんですね。では私もご一緒しますね。月見バーガーが美味しい季節ですよね」
「今日はなんだか、一人で食事をしたい気分なので」
「あらら? 下校途中に飲食店に立ち寄るのは校則違反だとこの生徒手帳に書いてありますね。本意ではありませんが、生徒会長として、桐生院さんの非行を先生に報告しないといけないようですね」
「…………」
理不尽の限りを尽くしながら、勝手についてくる。困ったものである。
「朝比奈。おまえは完璧な生徒会長だが、『誰にでも優しい』というのだけは嘘だと思う」
「そうなんですか? 私、誰にでも優しいですよ? 剣道部に入部します?」
「朝比奈が優しくないことと、剣道部への入部にどういう因果関係が?」
「入部してくれないから仕方なく優しくない可能性があります。入部さえしてくれれば、私は本来の接し方に戻ることができるというわけです。つまり悪いのは桐生院さん」
「優しくないな」
「そうですね、仕方ないですね、もういっそ剣道部に入部します?」
チクチクと、刀の切っ先を突きつけられているようだ。あれ以来二年ほどずっとこの調子である。いよいよ三年になってしまった。本当、あの日の真剣勝負を悔いている。
「……俺は目をつけられているな、生徒会長」
「いま気付きました? もう、目の敵ですよ。ずっと視線で追っています。血眼で追ってしまうんです、桐生院さん」
「もう少し色っぽい言い方にならないか」
「なりませんよ。なるはずだったのを、あなたが台無しにしたんじゃないですか」
「――――――、」
そう、失態である。大失態だったのである。桐生院宗吾、一生の不覚だったのである。
よりにもよって、真剣勝負に熱くなりすぎて、目の前の少女を容赦なく叩き伏せてしまうなどと。
「……仕方ないだろう。思いのほか、朝比奈の剣が素晴らしかったんだ」
美しかったといってもいい。一撃一撃が迷いなく、まっすぐに伸びてくるさまは、とても純粋で、汚れがなくて、自分のような汚れた剣しか知らない者には眩しすぎたのだ。
剣士として、本気で応えたくもなる。
「だからって、自負もろとも叩き折られたんですけど。手加減するなら、私に手加減してくださいよ」
「そうは言われてもな。加減するなといったのは朝比奈だったろう。というか、加減して納得したのか?」
「それはそうですけど……」
むむむ、と食い下がる。だが飲み込めないようだった。
「やっぱり、許せません。腹に据えかねます。桐生院さん、だいっきらいです」
穏やかな家路を行く。
少女は不服そうにそっぽ向いている。
自分の名前は桐生院宗吾。何の変哲もない、ただの暴力だけが取り柄の人間である。
暴力を振るうことは日常的にはないが、暴力に長けていることは致し方のない事実だ。
実戦の中で得た剣技ではあったが、本来知られてはならない場面を生徒会長に見られてしまい、以来・このように目を付けられてしまっている。
「はぁ……桐生院さんが、妖怪退治とかじゃない、普通にちょっと剣道強いだけの人だったらなぁ……」
「そうだな。それならまだ勝ち目もあるだろう」
「……失言でした。相手が弱いことを望むのはよくありませんね。いずれ必ず、実力で倒してみせますので」
「そうか。期待している」
「馬鹿にしてますね。やっぱり剣道部に入部します?」
「しない。」
+
「桐生院さん、先生がお呼びのようですよ」
とある平日の昼休み、自分の席で教科書を片付けていたら、朝比奈が嬉しそうに話しかけてきた。
「なんでも、先週日曜の深夜徘徊容疑について聞きたいことがあるのだとか。秘密がバレないといいですねぇ」
「……ご機嫌な理由はそれか、朝比奈。」
朝比奈は、たまに悪巧みをして『にまり』と笑うクセがある。俺以外にはあまり見せない表情だ。
「誤魔化しておいてくれたか?」
「はい。キチンと、深夜の繁華街で、女の子と一緒にメイドカフェから出てきたという嘘で誤魔化しておきました」
「ありがとう朝比奈、余計に悪くなってるな。先生は怒っていただろう?」
「怒り心頭でした。謹慎もやぶさかではないとのことでした。大丈夫です? 剣道部に入部します?」
「その、剣道部に入ると謎の権力が蠢いて揉み消せるかのような口ぶりはやめような」
教室を出ながら会話を続ける。階段に差し掛かり、周囲が静かになってから朝比奈深雪はしおらしく口にした。
「――冗談ですよ。その時間帯は桐生院さんは自宅にいて、私と電話してたって伝えておきました」
「助かる」
何かしらの勘違いが生まれてしまう可能性はあるが、そのリスクを飲み込んでくれたことには感謝しないといけないだろう。俺を追い越した朝比奈が、階段の下から見上げてくる。
「貸しひとつです。何をしてくれますか?」
「宿題代行」
「間に合ってます」
「家事代行」
「才色兼備ですので」
「王将でもおごろうか」
「惜しいですね、もう一声」
「駅前の喫茶店でコーヒーを」
「デザートは何が付きますか?」
「評判のモンブランパフェ」
「と?」
「と……もう一品」
そこまで譲歩して、ようやく納得したように笑みを浮かべた。花のような微笑みだった。
「上出来です。それで手を打ちましょう」
鼻歌でも歌い出しそうな足取りで職員室へと向かう。職員室付近の廊下はひと気が少ない。
「ところで――お体の調子はどうですか?」
「ん? 知っての通りの健康体だが」
「そうですかそうですか。それでは、唐突に誰かに決闘を申し込まれても支障はなさそうですね」
「…………っ、」
少し、動揺してしまう。二年前のことを連想したからだ。
「……おい。まさか」
「はてさて何のことでしょう? 私、まだ何も言ってませんよ。過度な期待はしないことですね」
そう、二年前。
夜の街で、偶然遭遇した朝比奈に、俺がちょっとイレギュラーな剣の使い手であることを目撃されてしまった事件。
しかしそれ以上朝比奈をこちらの事情に巻き込むわけにもいかず、学校では通常通りに、学校外では少しだけ親密に接することが続いた。それからしばらくは平穏無事に過ごしていたのだが、この敗けず嫌いな少女はある日、突然思いつめた表情で俺に果たし状を叩きつけてきたのだ。
――――私が勝ったら付き合ってください。
そんな、とんでもなく男気溢れる挑戦を。
「……いまだに、あまり意味が分かっていない」
「そうですかそうですか。許しがたいですね、いたいけな少女の気持ちをもてあそぶなんて」
「なぜああなった? そんな風になる要素があったか?」
「そっちにはなくても、こっちにはあったんです。それを、あなたときたら――」
真剣勝負するうちに、楽しくなってしまったのだ。そして無慈悲に打ち砕いた。完全無欠に、少女の自負も恋心も粉々に粉砕してしまったのだ。
「……ああ」
俺が悪い。それ以来、朝比奈とは微妙な距離感が続いている。
『にまり』と朝比奈が邪悪に微笑んでいる。
きっと、朝比奈は悔しかったのだと思う。悔しくて悔しくて仕方なかったのだと思う。
翌朝、俺の靴箱に二年振りの果たし状が届けられていた。
「――――」
やはり、という気分で俺はそれを受け取った。
場所は、放課後の剣道場で。相手も内容も確認するまでもない。
しかしながら。
「挑まれてしまったものは、仕方ないな」
無論、手加減などできるはずもない。それは朝比奈に対して失礼というものだろう。
むしろ、二年間で朝比奈が築き上げてきたであろうものを楽しみにさえ思う。あれから二年だ。この一戦にかけて、負けず嫌いの彼女が死力を尽くして築き上げて来たであろう剣技の数々を夢想すると高揚を禁じえない。
「さて……ひとまず放課後まで、いつもどおり勉学に励むか」
すれ違う他人が驚いて道を開ける。
窓ガラスに映る自分自身は、まるで二年前の失敗をなぞるように、凶悪な剣士の顔をしていた。
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