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「ロイ、早く撮れ! 」  僕は野田さんに言われるがまま、シャッターを切った。 「撮れたか? 」 「はい。バッチリです。イチタイとニタイがキスするところが完璧に写ってます」 「朝からずっと張り込んでた甲斐があったな」  僕と野田さんは、狭い車内でハイタッチをした。  僕は人間になってから、探偵事務所で、助手兼雑用係として働いている。  僕と野田さんが出会ったのは、僕が人間になった、あの日だった。  あの後晴は、気味悪そうに僕を見て、何も言わずに帰ってしまった。『核』と一緒に、晴の記憶は消えてしまったようだ。自分の名前がわかっていたし、帰る時に自分の家がわからないという様子はなかったから、僕に関する記憶だけ消えてしまったのだと思う。  僕は晴と過ごした日々を思い出して、悲しくなった。もう、晴はあの晴れやかな笑顔を見せることはないのだ。その悲しみに浸りながら、僕は境内を出た。このまま神社にいても仕方ない。でも、僕に行く先なんてなかった。 僕はただ闇雲に町を歩き回った。気づけば、辺りはすっかり暗くなって、空は夜のものになっている。黒なのか、青なのか、紫なのか。相変わらず、その色は何とも言えない色をしていた。前を見ると、夜に沈んだ道が長く伸びている。僕はその道から目を逸らした。そして、近くにあった公園のベンチに腰を掛けた。とにかく、散らかっている自分の気持ちと状況を整理したかった。  小さな公園には、古びたブランコとベンチの他には何も無かった。その景色は僕を落ち着かせた。そして、晴のことを考えた。このままじゃダメだ。どうにかしないと——。  僕は、晴にしあわせを取り戻してほしかった。そしてまた、あの笑顔を見せてほしかった。 「はぁぁぁ」  大きな溜息をつきながら、僕の隣に誰かが座った。ちらっと見ると、三十代から四十代くらいの男だった。第一印象からは年齢を推察しにくい感じの見た目だ。髪の毛がぼさっと膨らんでいて、あまり清潔感があるようには思えない。全体的に疲れ切った感じの印象だ。 「あ、隣良い? 」 「良いですよ」  僕がそう言うと、男は「何してんの? 」と僕を見て言った。 「考え事をしてました」  僕はそう答えた。 「こんな時間に、こんな何も無い所で何考えてるんだよ」 「……大切な人のこと、ですね」  男は「彼女と喧嘩でもしたのか? 」と言った。 「違うんです。そういうのじゃなくて。……色々あったんです」  男は、「ふーん」と言ったきり、何も訊いてこなかった。 「あなたは何をしてるんですか? 」 「俺? 何もしてないよ。何もない所を、ぼーっと眺めてるだけ」  男は気の抜けた声で言う。 「何も見なくて良い時間って、仕事柄、すごい貴重なんだ」  男は、僕のことをじろじろ見た。 「君、学生? 」 「違います」 「じゃあ、仕事は? 」 「してません」  男は、少し考えてから「じゃあ……ニート? 」と言った。 「ニート? 何ですか? それ」  僕が言うと、男は驚いたようだった。それでも、男は僕に「ニート」とは何かを教えてくれた。 「ニートって言うのは……学生でもなくて、働いたり、働くための努力もしてない若者って意味」  それならば、僕も「ニート」と言われるものの条件を満たしているかもしれない。僕は、人間になってから町を歩き回ることしかしていないのだから。 「ある意味、そうかもしれません」 「君、働く気ある? 」  男はそう僕に問いかけた。人間は仕事をして、お金を貰う。そうやって生活している。そのことは、人間を観察しているうちに知った。  つまり、人間は働かなければ生活出来ない。 「働く気はあります」  僕がそう言うと、男はじっと何かを考え始めたようだった。少しして、男は言った。 「うちで働かない? 」  公園で出会った男——野田さんは、僕を古びた雑居ビルに連れて行った。そのビルは、英会話教室、パソコン教室、マッサージ店などが入っていた。何となく統一感がなく、ごちゃっとした印象のビルだ。野田さんは、ビルに入ると真っ先に階段に向かった。僕はその後を付いていく。  二階に着くと、野田さんが言った。 「ここが俺の仕事場」  その部屋のガラス扉には、「野田探偵事務所」という文字が書かれていた。ガラス越しに見える部屋の中は、何かの資料らしき紙の束が、机の上に雑多に置かれていて、お世辞にも片付いているとは言えない様子だ。 「探偵……」 どこかで聞いたことがある職業だ、と僕は思った。僕は必死に記憶を辿る。そして、前に晴から、探偵が主人公のアニメの話をされたことがある、ということを思い出した。 「探偵って、あの「犯人はお前だ! 」とか言うやつですか? 」  僕は、晴から聞いていたイメージで野田さんに言った。途端に、野田さんはぷっと噴出した。そして、こう言った。 「実際の仕事はそういうのとはちょっと違うよ」  僕たちが事務所に入ると、若い女の人がいた。黒、白、グレーを基調としたシンプルな服装をしていて、化粧もあまり濃くない。やや吊り上がった切れ長の目と、縁のない眼鏡が、神経質そうな印象を醸し出している。 「あれ? まだいたの」  野田さんがそう言うと、その人は怒り出した。 「まだいたの? じゃありませんよ。どうして、いつも何も言わないで勝手に外に出て行っちゃうんですか。事務所を無人にするわけにもいかないし、野田さんが帰ってくるまで、私は帰れないんですからね! 」 「ごめんよ。キョウコちゃん」 「野田さん。女性の名前にちゃん付けするのはセクハラです。そしてちょっと気持ち悪いです。やめてください」 「キョウコちゃん、冷たいなぁ」  女の人は溜息をついた。そして、ふと僕の方を見た。 「この方は? 」  野田さんは、「新人。公園にいたから、連れてきた。彼、仕事してないらしいし」と言った。 「あなた、探偵の仕事をした経験は? 」  女の人は、僕にそう訊いた。 「ありません」 「では、探偵の専門学校に通ったり? 」 「通ってません」  女の人は、眉をひそめた。 「野田さん、この状況でどうして、ド素人を連れてくるんですか。山本(やまもと)君が辞めちゃってから、うちの事務所は野田さんと私しかいないんですよ。しかも、私は探偵じゃなくて、経理なんです。うちが今欲しいのは、最初の数年使い物にならない新人じゃなくて、即戦力です」 野田さんは、彼女の勢いに苦笑いしていた。 「……まぁ、何とかなるでしょ」 「甘い! 野田さんは経営舐めすぎです! 」  わあわあと言い合いをしている二人に、僕は取り残されていた。そんな僕を見て、野田さんが言った。 「君、今日はもう帰って良いよ。明日、身分証明書を持ってまた来てくれる? 取りあえず、九時くらいに来てくれれば良いから。あ、連絡先だけ一応教えておいて貰って良い? 」  そう言われて、僕は困ってしまった。連絡先はおろか、身分を証明するものなんて何も無い。いや、身分自体が無いのだ。 「あの……僕、連絡先も、身分を証明出来るものも持ってないんです」  僕は恐る恐る言った。 「あなた、お名前は? 」  女の人が僕に言った。 「ロイです」 「珍しいお名前ですね……。苗字は何とおっしゃるんですか? 」 「苗字……」  僕は苗字も、持っていない。僕が口籠もっていると、野田さんが言った。 「君……戸籍、ある? 」 「こせき? 」  僕が戸惑っていると、野田さんと女の人は顔を見合わせた。 「君、今までどうやって生きてきたの? 」  そう野田さんに問いかけられた。だけど、元々僕は幸食鬼で、廃校になった小学校に仲間と住んでいました。なんて言えるわけがない。言っても、信じて貰えないだろう。仕方なく、僕は誤魔化すことにした。 「わかりません」  僕は咄嗟にそう言っていた。変に作り話をしてもボロが出そうだったから、わからないふりをするのが精いっぱいだったのだ。 「私は、彼を雇うことに反対です。ド素人っていうだけでもどうかと思うのに、どう考えてもわけありの人とは働きたくありません」  女の人が言った。野田さんは、きいきい声で捲し立てる女の人を、さらりと無視して、僕に言った。 「君、大変だったんだね。記憶はどこまであるの? 気が付いたらあの公園にいた感じ? 」  野田さんは、僕を記憶喪失になっている人間だと思ったようだ。確かに、今までどうやって生きてきたのかわからないと言われれば、そう思うだろう。僕は、曖昧に頷いた。 「よし。俺が出来る限りのことをしてやる。住むところも、落ち着くまではここに居たら良い。俺も、この事務所に住んでるんだ。だから安心しろ」  野田さんはそう言ってくれた。僕の胸の中に、安心感と罪悪感が入り混じったような感情が沸き上がってくる。それでも、今は野田さんに頼るしかないだろう。 「野田さん⁈ 」  女の人は不満そうだった。 「キョウコちゃん。こんなこと言いたくないけど、所長は俺だよ。それに、俺だって伊達に探偵やってないんだ。関わっちゃいけない人間くらい見分けられる」  野田さんがそう言うと、女の人の表情は固まった。 「野田さんがそんなんだから、すぐに新人が辞めちゃうんですよ! 私だって、いつか絶対にこんな事務所辞めてやる! 」  女の人は、そう言い捨てて事務所を出て行った。 「あの……大丈夫なんですか? 」 「平気、平気。ほっとけば、明日には冷めてるよ」  野田さんは楽しそうに言った。  こうして、僕の人間としての生活がスタートした。 「一旦、車から降りてイチタイ(第一対象者のこと)とニタイ(第二対象者のこと。ここでは、浮気相手)を追う(尾行すること)ぞ。出来れば、ホテルに入るところも撮っておきたい」  僕たちは、車から降りて二人を尾行した。期待通りに、二人はホテルに入っていったので、それもバッチリ記録しておいた。 「次はニタイの身元の特定だな」  事務所に帰る車の中で、野田さんが言った。 「しっかし、あの旦那も大胆っていうか、馬鹿っていうか。会社出てすぐに、浮気相手とキスするかね、普通」  野田さんは呆れた様子だ。そして「俺ならバレないように、もっと慎重にやるけどね」と言っておどけた。 「……どうして、わざわざ浮気なんて……大切に思ってる人を傷つけるようなことをするんでしょうか」  僕は、さっき撮った写真を見ながら言った。 「理由なんて無いんじゃないか。ただ遊びたいだけなんだよ。理由もなく大切な人を傷つけられる人はたくさんいるからな」 「悲しいですね」  野田さんは、ハンドルを緩やかに切った。そして言った。 「人生、真っ直ぐ、思い通りにって言うのは難しいもんだ。ちゃんとハンドルを握ってるつもりでも、目的地に辿り着くまでには、障害も誘惑もある。大抵の人間は、目的地に着くまでに、無意識に欲望に任せて、間違った方向にハンドルを切ってしまう」  僕も、何度ハンドル操作を誤っただろう。あの時、優越感に浸るためだけに『核』を取った少女や、晴の顔が浮かんでくる。僕の場合、方向を間違うだけでは済まなかった。彼女たちの人生を破壊してしまった。 「ロイは、“大切な人”のことは覚えてるんだな」 「え? 」 「ほら、公園で言ってただろ。大切な人のことを考えてたって」  野田さんは、さりげなく言った。 「僕は、彼女のことが好きなんです」  僕は自然にそう言っていた。 「だけど、僕はハンドルを間違った方向に大きく切りました」  音楽もラジオもかかっていない車内に、町の喧騒が微かに流れ込んできた。 「彼女のことが好きなら、車を捨ててでも、彼女を連れて、二人の目的地に行くしかない。やってしまったことは変えられない」  やってしまったことは変えられない。その言葉は今の僕にぴったりだ。  実は、僕はあの後も、何度か晴に会いに行っている。夕方にあの神社に行くと、やっぱり晴はいた。何度も神社で顔を合わせるうちに、さすがに気味悪がられて逃げられることはなくなったけれど、前のように楽しい時間を過ごすこともなくなった。「しあわせを撮る写真家になりたい」と言っていた晴は、写真を撮らなくなった。空がどんなに綺麗でも、俯いてばかりで、暗い地面しか見なくなってしまった。  これら全部が、僕のやってしまったことの結果だ。 「でもな、ロイ。何も無くなったら、もう一度作り直せば良い。道から逸れても、歩いたところが道になっていくんだ。作ることを、進むことを諦めるのだけはいけない」  野田さんの言葉は温かかった。  事務所に戻ると、あの怒ってばかりの女の人——今日子さんが、帰り支度をしているところだった。 「野田さん、ロイさん。明日までに、ヤツをどうにかしておいて下さい」  僕たちは事務所に戻るなり、今日子さんにそう言われた。 「ヤツ? 」  野田さんが面倒くさそうに聞き返す。 「Gがいたんです! こんな空間いたくないので、私、もう帰ります。野田さんたちも、ちゃんと部屋借りれば良いのに」 「いちいち出勤してくるのが面倒くさいんだよ。それに、このビルは俺の持ち物なんだから、家にしようと勝手だろ」 「メリハリのない生活送ってると身体がカビますよ」  また、野田さんと今日子さんがわあわあと言い合いを始める。この景色にも、段々慣れてきた。  今日子さんが事務所から出て行くと、急に静かになった。野田さんは、コーヒーを煎れ始めた。 「良いんですか」 「何が? 」 「Gの退治しなくて」  事務所に、コーヒーの香りが広がった。 「良いんだよ。ほっとけば、明日には忘れてるよ」  蛍光灯が、微かにぱちぱちと音を立てている。心地の良い沈黙が事務所を包んだ。 「ロイって、綺麗な目してるよな。コバルトブルーって言うの? 色が神秘的で」  野田さんが、思い出したかのように言う。僕は、晴と出会った時のことを思い出した。カシャ、というシャッターの音。はにかんだような、晴の表情。それらは全て、僕の心で温かく輝いている、思い出の灯火だ。 「彼女にも、綺麗な目だって言って貰ったことがあります」  野田さんは、優しく微笑んだ。 「ロイは、実は昔の記憶、ちゃんとあるよな? 」  野田さんの言葉に、すっと身体が冷えていくのを感じた。  ——どうしよう。嘘がばれてしまった。 「あぁ、別に追い出すつもりもないし、そのことについて何も思ってないよ。過去のことを無理に話せと言うつもりもないし。やましいことがあるとは思ってない。生きていくために仕方なく吐いた嘘なんだろうと思ってる」  僕の胸の中を見透かしたかのように、野田さんはそう言った。そして、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。僕は野田さんの手にある、コーヒーカップを見ながら、必死に動揺を落ち着かせようとする。そんな僕を見て、野田さんは優しく微笑んで言った。 「ロイを誘ったのはさ、ロイを見た瞬間、あぁ、この人は良い探偵になるんだろうなって思ったからなんだ。この人は、人の幸せを壊すことの恐ろしさをちゃんと知ってるって、俺の勘が告げてた」 「僕が……」  野田さんは、頷いた。 「探偵は、人を救う仕事だと俺は思ってる。ずっと会いたかった人を探したり、裁判で証拠になりそうな報告書を作って、未来を切り開くための手伝いをしたり。だけどその一方で、人の幸せを壊す仕事でもあると思ってる。知らない方が良いことも、依頼人の希望がある限りは全て知らせるしかない。依頼人が信じてるものを、その場で壊すように淡々と報告するのもまた、俺たちの仕事だから」  机の上に置いてあるカメラのレンズが、蛍光灯の光を浴びて、きらっと光った。 「幸せを壊す、という感覚をきちんと理解してる人にこそ、俺は探偵をやってもらいたいんだ」   幸せを——しあわせを壊す恐ろしさを知っている人にしか、出来ないことがある。   目的地が見えた、という感覚が、僕の中に確かに芽生えた。 「僕たちは、しあわせを喰う」  僕は声に出して言った。 「でも、しあわせを生み出せるのも、僕たちだ」  僕の言葉に、野田さんは微笑んで頷いた。 「野田さん」 「ん? 」 「明日、お休みをいただいても良いですか」  野田さんは、大きく頷いた。
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