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15
「ロイ、早く撮れ! 」
僕は野田さんに言われるがまま、シャッターを切った。
「撮れたか? 」
「はい。バッチリです。イチタイとニタイがキスするところが完璧に写ってます」
「朝からずっと張り込んでた甲斐があったな」
僕と野田さんは、狭い車内でハイタッチをした。
僕は人間になってから、探偵事務所で、助手兼雑用係として働いている。
僕と野田さんが出会ったのは、僕が人間になった、あの日だった。
あの後晴は、気味悪そうに僕を見て、何も言わずに帰ってしまった。『核』と一緒に、晴の記憶は消えてしまったようだ。自分の名前がわかっていたし、帰る時に自分の家がわからないという様子はなかったから、僕に関する記憶だけ消えてしまったのだと思う。
僕は晴と過ごした日々を思い出して、悲しくなった。もう、晴はあの晴れやかな笑顔を見せることはないのだ。その悲しみに浸りながら、僕は境内を出た。このまま神社にいても仕方ない。でも、僕に行く先なんてなかった。
僕はただ闇雲に町を歩き回った。気づけば、辺りはすっかり暗くなって、空は夜のものになっている。黒なのか、青なのか、紫なのか。相変わらず、その色は何とも言えない色をしていた。前を見ると、夜に沈んだ道が長く伸びている。僕はその道から目を逸らした。そして、近くにあった公園のベンチに腰を掛けた。とにかく、散らかっている自分の気持ちと状況を整理したかった。
小さな公園には、古びたブランコとベンチの他には何も無かった。その景色は僕を落ち着かせた。そして、晴のことを考えた。このままじゃダメだ。どうにかしないと——。
僕は、晴にしあわせを取り戻してほしかった。そしてまた、あの笑顔を見せてほしかった。
「はぁぁぁ」
大きな溜息をつきながら、僕の隣に誰かが座った。ちらっと見ると、三十代から四十代くらいの男だった。第一印象からは年齢を推察しにくい感じの見た目だ。髪の毛がぼさっと膨らんでいて、あまり清潔感があるようには思えない。全体的に疲れ切った感じの印象だ。
「あ、隣良い? 」
「良いですよ」
僕がそう言うと、男は「何してんの? 」と僕を見て言った。
「考え事をしてました」
僕はそう答えた。
「こんな時間に、こんな何も無い所で何考えてるんだよ」
「……大切な人のこと、ですね」
男は「彼女と喧嘩でもしたのか? 」と言った。
「違うんです。そういうのじゃなくて。……色々あったんです」
男は、「ふーん」と言ったきり、何も訊いてこなかった。
「あなたは何をしてるんですか? 」
「俺? 何もしてないよ。何もない所を、ぼーっと眺めてるだけ」
男は気の抜けた声で言う。
「何も見なくて良い時間って、仕事柄、すごい貴重なんだ」
男は、僕のことをじろじろ見た。
「君、学生? 」
「違います」
「じゃあ、仕事は? 」
「してません」
男は、少し考えてから「じゃあ……ニート? 」と言った。
「ニート? 何ですか? それ」
僕が言うと、男は驚いたようだった。それでも、男は僕に「ニート」とは何かを教えてくれた。
「ニートって言うのは……学生でもなくて、働いたり、働くための努力もしてない若者って意味」
それならば、僕も「ニート」と言われるものの条件を満たしているかもしれない。僕は、人間になってから町を歩き回ることしかしていないのだから。
「ある意味、そうかもしれません」
「君、働く気ある? 」
男はそう僕に問いかけた。人間は仕事をして、お金を貰う。そうやって生活している。そのことは、人間を観察しているうちに知った。
つまり、人間は働かなければ生活出来ない。
「働く気はあります」
僕がそう言うと、男はじっと何かを考え始めたようだった。少しして、男は言った。
「うちで働かない? 」
公園で出会った男——野田さんは、僕を古びた雑居ビルに連れて行った。そのビルは、英会話教室、パソコン教室、マッサージ店などが入っていた。何となく統一感がなく、ごちゃっとした印象のビルだ。野田さんは、ビルに入ると真っ先に階段に向かった。僕はその後を付いていく。
二階に着くと、野田さんが言った。
「ここが俺の仕事場」
その部屋のガラス扉には、「野田探偵事務所」という文字が書かれていた。ガラス越しに見える部屋の中は、何かの資料らしき紙の束が、机の上に雑多に置かれていて、お世辞にも片付いているとは言えない様子だ。
「探偵……」
どこかで聞いたことがある職業だ、と僕は思った。僕は必死に記憶を辿る。そして、前に晴から、探偵が主人公のアニメの話をされたことがある、ということを思い出した。
「探偵って、あの「犯人はお前だ! 」とか言うやつですか? 」
僕は、晴から聞いていたイメージで野田さんに言った。途端に、野田さんはぷっと噴出した。そして、こう言った。
「実際の仕事はそういうのとはちょっと違うよ」
僕たちが事務所に入ると、若い女の人がいた。黒、白、グレーを基調としたシンプルな服装をしていて、化粧もあまり濃くない。やや吊り上がった切れ長の目と、縁のない眼鏡が、神経質そうな印象を醸し出している。
「あれ? まだいたの」
野田さんがそう言うと、その人は怒り出した。
「まだいたの? じゃありませんよ。どうして、いつも何も言わないで勝手に外に出て行っちゃうんですか。事務所を無人にするわけにもいかないし、野田さんが帰ってくるまで、私は帰れないんですからね! 」
「ごめんよ。キョウコちゃん」
「野田さん。女性の名前にちゃん付けするのはセクハラです。そしてちょっと気持ち悪いです。やめてください」
「キョウコちゃん、冷たいなぁ」
女の人は溜息をついた。そして、ふと僕の方を見た。
「この方は? 」
野田さんは、「新人。公園にいたから、連れてきた。彼、仕事してないらしいし」と言った。
「あなた、探偵の仕事をした経験は? 」
女の人は、僕にそう訊いた。
「ありません」
「では、探偵の専門学校に通ったり? 」
「通ってません」
女の人は、眉をひそめた。
「野田さん、この状況でどうして、ド素人を連れてくるんですか。山本(やまもと)君が辞めちゃってから、うちの事務所は野田さんと私しかいないんですよ。しかも、私は探偵じゃなくて、経理なんです。うちが今欲しいのは、最初の数年使い物にならない新人じゃなくて、即戦力です」
野田さんは、彼女の勢いに苦笑いしていた。
「……まぁ、何とかなるでしょ」
「甘い! 野田さんは経営舐めすぎです! 」
わあわあと言い合いをしている二人に、僕は取り残されていた。そんな僕を見て、野田さんが言った。
「君、今日はもう帰って良いよ。明日、身分証明書を持ってまた来てくれる? 取りあえず、九時くらいに来てくれれば良いから。あ、連絡先だけ一応教えておいて貰って良い? 」
そう言われて、僕は困ってしまった。連絡先はおろか、身分を証明するものなんて何も無い。いや、身分自体が無いのだ。
「あの……僕、連絡先も、身分を証明出来るものも持ってないんです」
僕は恐る恐る言った。
「あなた、お名前は? 」
女の人が僕に言った。
「ロイです」
「珍しいお名前ですね……。苗字は何とおっしゃるんですか? 」
「苗字……」
僕は苗字も、持っていない。僕が口籠もっていると、野田さんが言った。
「君……戸籍、ある? 」
「こせき? 」
僕が戸惑っていると、野田さんと女の人は顔を見合わせた。
「君、今までどうやって生きてきたの? 」
そう野田さんに問いかけられた。だけど、元々僕は幸食鬼で、廃校になった小学校に仲間と住んでいました。なんて言えるわけがない。言っても、信じて貰えないだろう。仕方なく、僕は誤魔化すことにした。
「わかりません」
僕は咄嗟にそう言っていた。変に作り話をしてもボロが出そうだったから、わからないふりをするのが精いっぱいだったのだ。
「私は、彼を雇うことに反対です。ド素人っていうだけでもどうかと思うのに、どう考えてもわけありの人とは働きたくありません」
女の人が言った。野田さんは、きいきい声で捲し立てる女の人を、さらりと無視して、僕に言った。
「君、大変だったんだね。記憶はどこまであるの? 気が付いたらあの公園にいた感じ? 」
野田さんは、僕を記憶喪失になっている人間だと思ったようだ。確かに、今までどうやって生きてきたのかわからないと言われれば、そう思うだろう。僕は、曖昧に頷いた。
「よし。俺が出来る限りのことをしてやる。住むところも、落ち着くまではここに居たら良い。俺も、この事務所に住んでるんだ。だから安心しろ」
野田さんはそう言ってくれた。僕の胸の中に、安心感と罪悪感が入り混じったような感情が沸き上がってくる。それでも、今は野田さんに頼るしかないだろう。
「野田さん⁈ 」
女の人は不満そうだった。
「キョウコちゃん。こんなこと言いたくないけど、所長は俺だよ。それに、俺だって伊達に探偵やってないんだ。関わっちゃいけない人間くらい見分けられる」
野田さんがそう言うと、女の人の表情は固まった。
「野田さんがそんなんだから、すぐに新人が辞めちゃうんですよ! 私だって、いつか絶対にこんな事務所辞めてやる! 」
女の人は、そう言い捨てて事務所を出て行った。
「あの……大丈夫なんですか? 」
「平気、平気。ほっとけば、明日には冷めてるよ」
野田さんは楽しそうに言った。
こうして、僕の人間としての生活がスタートした。
「一旦、車から降りてイチタイ(第一対象者のこと)とニタイ(第二対象者のこと。ここでは、浮気相手)を追う(尾行すること)ぞ。出来れば、ホテルに入るところも撮っておきたい」
僕たちは、車から降りて二人を尾行した。期待通りに、二人はホテルに入っていったので、それもバッチリ記録しておいた。
「次はニタイの身元の特定だな」
事務所に帰る車の中で、野田さんが言った。
「しっかし、あの旦那も大胆っていうか、馬鹿っていうか。会社出てすぐに、浮気相手とキスするかね、普通」
野田さんは呆れた様子だ。そして「俺ならバレないように、もっと慎重にやるけどね」と言っておどけた。
「……どうして、わざわざ浮気なんて……大切に思ってる人を傷つけるようなことをするんでしょうか」
僕は、さっき撮った写真を見ながら言った。
「理由なんて無いんじゃないか。ただ遊びたいだけなんだよ。理由もなく大切な人を傷つけられる人はたくさんいるからな」
「悲しいですね」
野田さんは、ハンドルを緩やかに切った。そして言った。
「人生、真っ直ぐ、思い通りにって言うのは難しいもんだ。ちゃんとハンドルを握ってるつもりでも、目的地に辿り着くまでには、障害も誘惑もある。大抵の人間は、目的地に着くまでに、無意識に欲望に任せて、間違った方向にハンドルを切ってしまう」
僕も、何度ハンドル操作を誤っただろう。あの時、優越感に浸るためだけに『核』を取った少女や、晴の顔が浮かんでくる。僕の場合、方向を間違うだけでは済まなかった。彼女たちの人生を破壊してしまった。
「ロイは、“大切な人”のことは覚えてるんだな」
「え? 」
「ほら、公園で言ってただろ。大切な人のことを考えてたって」
野田さんは、さりげなく言った。
「僕は、彼女のことが好きなんです」
僕は自然にそう言っていた。
「だけど、僕はハンドルを間違った方向に大きく切りました」
音楽もラジオもかかっていない車内に、町の喧騒が微かに流れ込んできた。
「彼女のことが好きなら、車を捨ててでも、彼女を連れて、二人の目的地に行くしかない。やってしまったことは変えられない」
やってしまったことは変えられない。その言葉は今の僕にぴったりだ。
実は、僕はあの後も、何度か晴に会いに行っている。夕方にあの神社に行くと、やっぱり晴はいた。何度も神社で顔を合わせるうちに、さすがに気味悪がられて逃げられることはなくなったけれど、前のように楽しい時間を過ごすこともなくなった。「しあわせを撮る写真家になりたい」と言っていた晴は、写真を撮らなくなった。空がどんなに綺麗でも、俯いてばかりで、暗い地面しか見なくなってしまった。
これら全部が、僕のやってしまったことの結果だ。
「でもな、ロイ。何も無くなったら、もう一度作り直せば良い。道から逸れても、歩いたところが道になっていくんだ。作ることを、進むことを諦めるのだけはいけない」
野田さんの言葉は温かかった。
事務所に戻ると、あの怒ってばかりの女の人——今日子さんが、帰り支度をしているところだった。
「野田さん、ロイさん。明日までに、ヤツをどうにかしておいて下さい」
僕たちは事務所に戻るなり、今日子さんにそう言われた。
「ヤツ? 」
野田さんが面倒くさそうに聞き返す。
「Gがいたんです! こんな空間いたくないので、私、もう帰ります。野田さんたちも、ちゃんと部屋借りれば良いのに」
「いちいち出勤してくるのが面倒くさいんだよ。それに、このビルは俺の持ち物なんだから、家にしようと勝手だろ」
「メリハリのない生活送ってると身体がカビますよ」
また、野田さんと今日子さんがわあわあと言い合いを始める。この景色にも、段々慣れてきた。
今日子さんが事務所から出て行くと、急に静かになった。野田さんは、コーヒーを煎れ始めた。
「良いんですか」
「何が? 」
「Gの退治しなくて」
事務所に、コーヒーの香りが広がった。
「良いんだよ。ほっとけば、明日には忘れてるよ」
蛍光灯が、微かにぱちぱちと音を立てている。心地の良い沈黙が事務所を包んだ。
「ロイって、綺麗な目してるよな。コバルトブルーって言うの? 色が神秘的で」
野田さんが、思い出したかのように言う。僕は、晴と出会った時のことを思い出した。カシャ、というシャッターの音。はにかんだような、晴の表情。それらは全て、僕の心で温かく輝いている、思い出の灯火だ。
「彼女にも、綺麗な目だって言って貰ったことがあります」
野田さんは、優しく微笑んだ。
「ロイは、実は昔の記憶、ちゃんとあるよな? 」
野田さんの言葉に、すっと身体が冷えていくのを感じた。
——どうしよう。嘘がばれてしまった。
「あぁ、別に追い出すつもりもないし、そのことについて何も思ってないよ。過去のことを無理に話せと言うつもりもないし。やましいことがあるとは思ってない。生きていくために仕方なく吐いた嘘なんだろうと思ってる」
僕の胸の中を見透かしたかのように、野田さんはそう言った。そして、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。僕は野田さんの手にある、コーヒーカップを見ながら、必死に動揺を落ち着かせようとする。そんな僕を見て、野田さんは優しく微笑んで言った。
「ロイを誘ったのはさ、ロイを見た瞬間、あぁ、この人は良い探偵になるんだろうなって思ったからなんだ。この人は、人の幸せを壊すことの恐ろしさをちゃんと知ってるって、俺の勘が告げてた」
「僕が……」
野田さんは、頷いた。
「探偵は、人を救う仕事だと俺は思ってる。ずっと会いたかった人を探したり、裁判で証拠になりそうな報告書を作って、未来を切り開くための手伝いをしたり。だけどその一方で、人の幸せを壊す仕事でもあると思ってる。知らない方が良いことも、依頼人の希望がある限りは全て知らせるしかない。依頼人が信じてるものを、その場で壊すように淡々と報告するのもまた、俺たちの仕事だから」
机の上に置いてあるカメラのレンズが、蛍光灯の光を浴びて、きらっと光った。
「幸せを壊す、という感覚をきちんと理解してる人にこそ、俺は探偵をやってもらいたいんだ」
幸せを——しあわせを壊す恐ろしさを知っている人にしか、出来ないことがある。
目的地が見えた、という感覚が、僕の中に確かに芽生えた。
「僕たちは、しあわせを喰う」
僕は声に出して言った。
「でも、しあわせを生み出せるのも、僕たちだ」
僕の言葉に、野田さんは微笑んで頷いた。
「野田さん」
「ん? 」
「明日、お休みをいただいても良いですか」
野田さんは、大きく頷いた。
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