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「あれ? こんなところにカフェなんてあったんだ」
コンビニへと向かう道すがら、一軒のカフェに目が留まった。会社に勤めていた頃は、朝から晩まで働いていたから、全然気が付かなかった。
どうやら一軒家の一部をカフェにしているらしい。まだ外観は新しい。外に置かれている看板もまだピカピカだ。
メニュー表が置かれていたので少し覗いてみることにした。まず目に留まったのは、タマゴサンドの写真だった。普通はコーヒーとか、ケーキなんだろうけど。
「卵焼きをサンドしたり、変わり種も増えてきたけど、やっぱりタマゴサンドはゆで卵をつぶして、マヨネーズで和えた王道のものに限るわよね」
こう見えて、わたしはタマゴサンドには目がない。仕事に没頭していた頃の唯一の楽しみは、いろんなコンビニのタマゴサンドを買ってきて、それの食べ比べだった。
もっとも、やっていたことは誰でもできるその程度で、休みの日にネットで話題になっているタマゴサンドを求めて遠征にだって出たりはしていないので、趣味と言えるレベルにはない。
でも、タマゴサンドが好きなことに変わりはなかった。
ぐーとお腹が鳴る。
決めた。今日のお昼ごはんはここで、タマゴサンドを食べよう。
カランカラン、と乾いたベルの音を立てながら入店する。
店内は純喫茶という雰囲気だった。といっても、広さはなく、カウンターが五席に、二人が対面で座れる小さなテーブルが二つだけだった。わたし以外の客の姿はまだない。
「お好きな席にどうぞ」
マスターと呼びたくなるような、長身の白髪白髭の男性がコップを拭いていた。
指紋が付かないように、コップ全体を白い布で覆い、丁寧に拭いている。きちんとしたお店だと直感した。
わたしはさすがにマスターの前に座るのは気が引けたし、手前に座るのもなんだか嫌だったので、最奥の席に座った。
「おしぼりをどうぞ。あと、こちらがメニュー表になります。決まりましたら、お呼びください」
最低限の説明だけを終えると、マスターはすぐに先ほどと同じ位置に戻った。
わたしはほのかに花の香りのするおしぼりで手を拭い、メニュー表を見た。頼むものは決まっているが、他のメニューも気になるので目を通す。
メニュー表はアンティーク調のバインダーに閉じられていた。店の雰囲気とマッチしていてとても好感が持てた。
メニュー表を開き、わたしは思わず唸った。全ての商品の写真が掲載されていた。
商品名だけだと、客がどんな商品かを想像するしかなく、想像と違ったものが出てくる可能性もある。だが、これならそういった懸念は払しょくされる。
さらに驚いたのは、一つ一つに丁寧な説明が書かれていることだ。
例えば、コーヒーは数種類あるのだが、豆の産地だったり、どういった味わいであるかはもちろんのこと、集中したいときにオススメといったように、どういった気分の時にオススメであるかなどまで書かれている。
さらに、素敵だなと思ったのが、料理はアレルギー表記が必要なものだけではなく、全ての食材が事細かに書いてある点だった。
これなら様々な食材のアレルギーを持っている人でも、好き嫌いがある人でも、小さな子供でも、食材を気にせずに安心して食べることができる。
おまけに、何を頼めばいいのか困る人がいることも見越してなのか、オススメメニューと題した、オーソドックスなメニューを組み合わせたものまで最後のページに記載されていた。
最後のページというところに気配りを感じる。最初のページだと、これを頼んでください、と言わんばかりで押しつけがましくなる。その点、最後のページは全てのページを見た後で到達するページなので、選択肢を全て見た後になる。押しつけがましさがない。
わたしはマスターを見た。
この店、すごい。特別なことをやっているわけではない。だが、ここまでのことはなかなかできるものではない。
「あの、注文いいでしょうか」
「はい、どうぞ」
マスターは好感の持てる小さな笑みを浮かべながら、わたしの注文を取ってくれた。
「コーヒーとタマゴサンドですね。少々お待ちください」
マスターは会釈すると、すぐに準備に取り掛かってくれた。
コーヒーをドリップし、タマゴサンドを手際よく作っていく。
卵はゆで卵を荒く潰し、そこにおそらく手製のマヨネーズを加え、軽くコショウを振り、混ぜ合わせていた。ゆで卵こそ作り置きだが、それ以外は注文が入ってから作っているところに好感が持てる。
できたタマゴを耳を落とした食パンでサンドし、それを斜めに切って、皿に立てて盛り付けた。脇に、スティック状のものも添えているが、なんだろうか。
「お待たせしました。タマゴサンドとコーヒーです」
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐると同時に、タマゴサンドのマヨネーズの香りも鼻孔を抜けていった。あと、甘い香りも。
スティック状のものは、パンの耳だった。砂糖を軽くまぶして、少し焼いてある。パンも余すことなく使い切って商品にしているところに、感心してしまう。
「タマゴサンドは零れて手や服が汚れてしまうかもしれませんから、ナプキンでくるんで食べていただくのを、オススメしております」
よく見ると、タマゴサンドの下にはナプキンが引いてあった。心配りが本当に行き届いている。
そこで、わたしはあることを思い出した。
「服……」
今更ながら、気が付いた。わたしの恰好は、到底喫茶店に来ていいような恰好ではなかった。
白のティーシャツに黒の短パン。おまけに髪の毛は寝癖がついたままのボサボサ状態だ。化粧もしていない。足元もサンダルだ。
ごみ捨てならいいだろう。行ってもコンビニまでだ。
「あの、こんな格好で来てしまって、すいません」
顔がカッと熱くなる。急に恥ずかしくなってしまい、思わず謝罪の言葉が口をついた。
しかし、マスターはそんなことは全く気にしていなかった。
「何を気にすることがあるでしょうか。ここは高級ホテルじゃありませんよ。どろんこ遊びをした子供でも、スーツを着こなしたどこぞの社長でも、近所の奥様でも、誰でも来ていただける喫茶店です。恰好なんて関係ありませんよ。それに、恰好はその人を見る一つの指標にはなりますが、その人の全てを表しているわけではありませんから」
わたしはマスターを見た。あたたかな陽光のような、全てを包み込んでくれる素敵な笑顔がそこにあった。リップサービスなどではない、本心からの言葉だ。
「あの、一つ伺ってもいいですか?」
わたしは髪を軽く梳かしながら、マスターに聞く。
「何でもどうぞ」
「この喫茶店、お客さんへの配慮の行き届いた素敵なお店だと思います。どうしてここまでできるんですか?」
マスターは白髭を撫でた。
「わたしは、わたしができることをしているまでですよ。わたしはこの喫茶店にたくさんの人に来てもらいたい。だから、そのためにできることをしているだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「できることをしているだけ、ですか。でも、ここまでのことはなかなかできませんよ。マスターじゃなければできないことですよ、きっと」
最後まで言って、言い方が卑屈になっていることに気が付いた。
わたしは、わたしの仕事はわたしじゃなければできないと思っていた。でも、実際は違った。
だけど、マスターはマスターにしかできないことをしていると感じた。だから、こんな言い方をしてしまった。
初対面の人に対してこんな態度。恥ずかしいことこの上ない。
「……わたしじゃなければできないことですか。そう言っていただけるのはうれしいですが、わたしじゃなければできないことなんて、ないですよ」
「わたしだからできること、はありますけど」
マスターの言葉に、わたしははっとした。
「わたしじゃなければできないことは、その人以外にできる人が存在しない状態です。しかし、わたしのやっていることは、誰でもできることです。それに気が付き、やろうとすれば、誰でもできることです」
たしかに、言われてみれば、マスターの言う通り、一つ一つのことは誰でもできることだ。
「ですが、それに気が付けるかどうかは、その人次第なのです。そして、それをするかどうかもまた、その人次第なのです」
わたしはマスターの瞳をじっと見つめていた。
「その人じゃなければできない、なんてことはこの世界にないとわたしは思っています。例えば、万有引力の法則を見つけたニュートンだってそうです。彼は万有引力の法則を見つけましたが、そもそも万有引力は、誰の前にもあったものです。誰が気が付いてもおかしくなかった。しかし、気が付いたのは彼です。その発見のために努力を重ねていた彼だからこそ、気が付くことができたわけです」
マスターもまた、わたしの瞳をじっと見つめてくれた。
「宇宙飛行士だって、国家元首だって、大企業の社長だって、代わりはいくらでもいます。その人にしかできないわけではありません。でも、その人だからこそ、できることはたくさんあるのです。だから、あなたも、あなただからこそできることがあるはずですよ」
気が付けば、わたしは泣いていた。目を見開いたまま、泣いていた。
わたしは、わたしにしかできないことがなければいけないと思っていた。そうでなければ、わたしは必要とされないから。
わたしにしかできないことがあれば、わたしは必要とされる。そんな状態を欲していた。
でも、わたしにしかできないことじゃないと気が付かされた時、わたしは自分が不要な人間なんだと感じてしまった。不要な人間である以上、わたしは会社にいらない存在だと思ってしまった。
それは間違いだった。
わたしは不要な人間なんかじゃなかった。たとえ、別の人がわたしのしていたことをできたとしても、それはわたしと同じ結果になるとは限らない。
わたしの方が、より短く終わらせることができるかもしれない。
わたしの方が、より高い成果を出せるかもしれない。
わたしじゃなければいけないわけじゃない。だけど、わたしだからこそできることがあるのかもしれない。
阿呆だ。わたしは、何て阿呆なんだろうか。
「……コーヒー、冷めてしまいましたね。新しいのを淹れますね」
それだけ言い残すと、マスターはわたしから離れて行った。
新しいコーヒーが来たのは、わたしがひとしきり泣いた後だった。
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