愛玩犬→猟犬→?

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愛玩犬→猟犬→?

 秋も深まり、風が少しだけ冬の気配を含んだ頃、カズマは愛犬、いや今日は猟犬のトラを連れて家を出た。この犬種は成犬になると虎ジマが現れるらしく、また母親が映画の寅さんが好きなため、そんな名前になった。姉は「なんか可愛くないね」などとこそっと耳打ちしてきた。最初は同感だったカズマも、慣れてしまえば気にならなくなり、むしろ今では呼びやすく、良い名前だと思っていた。  今日は土曜日。当時の小学校は土曜日にも授業があった。それでも児童たちは午前中だけで帰れるとあり、土曜日は楽な日、という認識だった。そんなご時世を反映して土曜日の昼間は子供向け番組を放送しており、カズマもゲラゲラと笑い転げているのが常だった。が、今日のカズマは早々にテレビ鑑を切り上げ、冷蔵庫に入れてあった包みを手に裏庭に向かう。大きな耳をピクッと動かし、丸くなっていたトラは機敏に たちあがる。といつも通りブンブン尻尾を振り回し「遊ぼう遊ぼう」と訴えてくる。日本犬は飼い主にしか懐かない、とは世間一般のこと。このトラは誰に似たのか郵便配達員、新聞配達、通りかかった人には全力で愛想を振り撒き、かまってもらおうとする。「まったく番犬に向かないね」とは母の言だ。綱をもって近づいたものだから、大好きな散歩だと勘違いしている。首輪から鎖を外そうと顔を近づけたものだから、顔中を舐められてしまった。散歩に使っている柄のある綱ではないから、なんとなく違和感は感じているのだろうか。父から渡されていた金具のついた白い細引き(※1)を首輪に付ける。 太く短い木の枝にグルグルと巻きつけた細引きは20メートルはあろうか。掴んでいた首輪を離した途端、猛然と走り出そうとする。ビュッと手のひらのなかで細引きが滑り熱い。カズマは我慢してトラの走りを抑える。 『こんな躾知らずも今日までだ』 そう、父から与えられていた今日の任務は、愛玩犬から一人前の猟犬へ、というものだった。父親は趣味で狩猟をする。主に丹波山村周辺を狩猟場としていたので、自然とこの甲斐犬という犬種に興味が湧いたのだろう。子供たちの「犬が飼いたい」というすがるような目つきに 押されたのもあるかもしれない。ある晩、突然子犬を連れていた。 「どうだ、カズ。こいつはケットウショ付きだぞ」 子供のカズマに血統書がなにか分かるはずもなかったが、あるていど察しはいいほうだったので自慢するようなものだろうと受け取っておいた。それより何よりムクムクとした真っ黒い子犬が可愛くてしょうがなかった。  それからの毎日、学校から帰るのが楽しくて待ち遠しかった。夏の間は本当によく遊んだ。元来が優れた猟犬の資質を持っていたため、太い足は力強く速かった。近所の河原で枝を投げれば、機敏に探し出し瞬足を飛ばして飼い主の元へ帰ってきた。川にも一緒に飛び込んだ。そして散々子供達の遊び相手として放ってほうたくせに 「そろそろ、猟につれていかないとな」 と来た。そしてだれから聞いてきたのか、ありがたいことに訓練法を伝授してくださった。どこで怒り出すかわからないようなこともある父だったので、内心ゲンナリしながらカズマは生真面目に拝聴しておいた。こうなれば、カズマにも自負がある。『トラを ここまで躾たのは僕だ』と胸を張りたい。『そうか、こんなことまでできるように訓練したのか。よく頑張ったな』と父に言わせたい。トラとはこんなに仲がいいんだ。コツさえ掴めればきっとやって欲しいことが伝わるはずだ。そんな根拠のない自信が 雲のようにモクモクと心に湧き上がってきた。 そして今日、訓練員カズマの初登場となったわけだ。事情を知っている人がこの組み合わせを見たら笑わずにはいられない。訓練したことのない訓練員と、遊びに連れて行って貰えると勘違いしている犬。この可笑しなペアが意気揚々と山へ向かっているのだから。  秋の日差しが山の斜面を照らしている。深く積み重なる落ち葉から、太陽の匂いが 立ち昇る。いつもの通学路と並行する山道には、今日は誰の声も聞こえなかった。カズマは持ってきた包みを開く。それは黒いストッキングに押し込まれた鶏のモモ肉だった。小学生ながらカズマはこういった生肉などを扱う事に抵抗がなかった。父親が猟で仕留めてきたヤマドリやキジを台所で捌いているのは、日常のことであったから。  ここで訓練のことを長々と話すのはやめておこう。結果から言えばカズマの訓練員としての出発は、もうお分かりのことと思うが大失敗だった。肉を噛ませれば離さない。隠しておいた肉を匂いで探し出し、飼い主の元へ運ばせる、という訓練をしたとき、トラがなかなか帰って こない。向こうでガサガサと枯葉の音がしている。ちょっと巧妙に隠し過ぎたか、としばらくカズマは様子を見ることにした。するとガリガリと音がする。慌ててトラに近づくと、もうほとんどなくなった鶏肉の骨が見えた。 「あぁっ、トラ。こらこら」 となんとか肉を取り上げると、なんとも恨めしそうな顔をこちらへ向けている。カズマはため息をつくと、この日の訓練はこれまでとすることにした。  その晩、食卓で家族にその結果を報告すると、いい笑い者になった。誰もが予想していただけに、暖かい笑いではあったが。  しばらくすると、カズマは訓練のことなどすっかり忘れてしまい、猟犬としてトラを見ることもなくなっていた。いよいよ寒さが感じられるようになったある休日、父はカズマとトラを猟へ連れていってくれると言い出した。まったく突然だから困ってしまう、と言いたいが前から行きたかったカズマは大喜びだ。大急ぎで支度をしてワクワクしながら出発した。父も子供連れなので、その日はそれほど遠くない猟区へ行くのだと言う。猟銃のうるささは 父から聞かされていたのでカズマは知っていた。言われた通り、父が銃を構えると急いで耳を塞いだ。バーン!鳥を狙ったのだろうが外したようだ。獲物の数も少なく、開けたような場所もないので狙い難いのだそうだ。まあ父も散歩程度の気持ちでいるのかもしれない。と、突然父が猟銃を構えた。反射的に耳を塞ぐカズマ。バーン!当たったのか。次の瞬間父の口から出たのは、 「よし、カズマ、行け」 とっさに一歩前へ足を踏み出したカズマだったが、何か可笑しいものを感じトラを振り返った。そこにはキョトンとした顔をしたトラがカズマを見返していた。  耳がキーンと鳴り続けている。後ろから父が何か言っているのだろうがカズマの耳には全く聞こえない。多分謝っているのだろうが「何言ってるのか聞こえない」と言って帰宅の道を大股でズンズン歩く。トラと間違って息子を獲物拾いに行かせるなんて、プリプリ怒っていたら、耳を塞ぐのを忘れ猟銃の発射音をまともに耳に入れてしまったのだ。結局今日の獲物はなく、手ぶらでの帰宅となった。が、キョトンとしたトラの顔を思い出し、前を歩くカズマの顔は冷たい風の中、いつの間にか笑っていた。
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