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――地図にない世界へ行ったんだよ。
喧騒の途絶えた僅かな一瞬の後、スクランブル交差点を渡る僕の耳が拾い上げた言葉は、また再びの渦巻くような騒めきに紛れて誰のものかも分からずに消えた。
聞き間違いかもしれない。
おそらくは。
或いは、何かのゲームの話なのだろう。
それでも僕は、想像してみる。
地図にない世界について。
細い路地の奥にある待ち合わせの『夜のカフェ』では、その扉を開けると、先に来ていた桜森一縷がコーヒーを片手に本を読んでいるのが見えた。
このカフェの正式な店の名は、違う。
ただ、最初に入った時に目にした深紅の壁と、室内を照らす黄味がかった光を見た時から僕と一縷が勝手に『夜のカフェ』と呼んでいるだけだ。これがまた実にしっくりとくる所為で、今となってはこの店の本来の名称が分からない。
二人だけに、通じる言葉だった。
「……地図にない世界って、どんな世界だと思う?」
向かいの椅子に腰を下ろしながら、声をかければ、本を閉じ僕を見上げる一縷の形の良い赤い唇が皮肉げに歪んだ。
「夜かな」
「夜?」
「うん。夜は、すべてのあわいにあると思うんだよね」
今日と明日。
現実と夢。
此岸と彼岸。
「地図にはない世界……いや、その世界では地図なんて、意味を成さないんじゃないかな」
「ふうん」
飲み物を注文した後、再び本を開き読み始める一縷の伏せた目の長い睫毛を見ていた。
文字を追うたびに動く瞼の中にある眼球を見ながら、唇を寄せたときの皮膚の柔らかさや触れる睫毛の擽ったさを思い出して、頬杖を突く。
しばらくして運ばれてきた飲み物に口をつければ、一縷は本を閉じたところだった。
「……伊織は?」
「僕は、って?」
一縷を見ながら飲み物をテーブルに置いて、首を傾げる。
「地図にない世界だよ」
「そうだなぁ……やっぱり一縷が言うように、夜のような気がする。一人で居ると、ふとした瞬間に、ここではない何処かに紛れてしまいそうな恐怖があるんだよな」
「二人だったら?」
僕は、本の上に置かれた一縷の白く滑らかな手に、視線を落とす。
……二人だったら。
「二人だったら、地図はいらないかもな」
こうして真夜中に待ち合わせをする僕たちは、すでに地図にない世界にいるのかもしれない。
二人同時に、窓の外へ目をやる。
遥か頭上、建物の間から僅かに覗く空は、夜でも光に溢れ朧朧としていた。
《了》
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