最終話:キリストの血 (ある病院経営者と高級クラブ経営者の奇妙な会話)

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最終話:キリストの血 (ある病院経営者と高級クラブ経営者の奇妙な会話)

 ひさしぶり、と彼女は言った。ああしばらくだったね、と私は応えた。  深夜にオフィスでの仕事を終えた私が、最近行きつけにしている裏通りの隠れ家のような小さなワインバーで、グラスワインをちびちびと()りながら寛いでいるところに、彼女がふらりと姿を現したのだ  確かにひさしぶりだった。しかし彼女は以前と変わらず美しい。透き通るように白く大理石のように滑らかな肌、深い緑色の瞳、濃いブラウンの肩までかかる長い髪は自然なウェーブを描いている。細身の身体にパーティー帰りなのだろうか、瑠璃色のベルベットのロングドレスがとても似合っていた。 「最後に会ったのはいつごろだったかしら?」 「うん、あれはたしかロンドンだったよね。この間の世界大戦が始まる前ごろだから、ざっと80年前かな」 「もうそんなになるんだ。あなた変わらないわね」 「君もね。おたがい見た目は変わらないが、世の中は大きく変わったしライフスタイルもかなり変わっただろう?」  彼女は少し目を細めて、私が手にしているワイングラスを見つめた。 「ええ、あなたがワインを飲んでいるなんてね。昔のあなたを知っている人たちが見たら信じられないでしょうね」  私は思わず苦笑を漏らした。 「たしかに十字架片手に私たちを追い回していた彼らに見せてやりたかったな、私がキリストの血である紅い葡萄酒を飲んでいるところを。しかし彼らはもうこの世を去った。君も飲むのだろう?」 「ええ、いただくわ」  彼女にも同じものを、と言って私はグラスワインを注文した。 「君はあれからどうしてた?」 「戦争が始まってからはインドに居たわ。戦争が終わるまでずっと居た。ねえ、私たちって昔は人類の脅威みたいに恐れられてたじゃない?でも私たちが生きるためにほんの少しばかりの人間の血をいただいからってなんなのかしら。人間たちが自らの手で流した血の量と比較したら、限りなくゼロに近いじゃない」 「おいおい、まさか君はインドで反戦運動家にでもなっていたのかい?」 「まさかそこまで人間の問題に関わってはいられないわよ。それで戦争が終わってしばらくはアジアをあちこち渡り歩いて、その後はヨーロッパに戻ってアメリカにも行ったわ。ベトナム戦争が終わって日本に来て少し落ち着いているの。あなたは?」 「私も似たようなものだ。一時ルーマニアに帰っていたんだけど、ソ連の介入で王制が廃止され社会主義国になったろう?おかげでチャウシェスクが打倒されるまで国を出られなかったんだ。その後はヨーロッパを少し彷徨ってから日本に来た」 「お仕事は?」 「病院を経営しているよ。おかげで血液が安定して手に入るから、夜な夜な生き血を求めて街をさまよい歩く必要はなくなったね」 「私のパトロンにも病院関係者が多いから、その点は私も助かっているわ」 「君は仕事は何をしているんだい?」 「飲食業よ。銀座でクラブを何軒か経営しているわ。でもほら最近またおかしなウィルスが流行ってるじゃない。客足が遠のいて四苦八苦しているわよ。よかったら今度お店に来てちょうだい」 「ああぜひお邪魔させてもらうよ。しかし今回のウィルス騒ぎで病院も別の意味で四苦八苦さ」 「黒死病を思い出すわね」 「またひどく懐かしい話題だな。あれからもう600年以上になるよ」 「あの時はヨーロッパの人口の3分の1が命を落としたんですってね。そういえばあの恐ろしい死の病まで私たちの仕業みたいに言われたわよね」 「目に見えない本物の人類滅亡の脅威を前にして、人間たちは目に見える脅威を欲したんだ。それが我々だったのさ」 「たくさんの同族が人間たちに殺されたわ。彼らは本気で私たちが人間を滅ぼそうとしていると思っていたのかしら?私たちは人間がいなければ生存できない弱い種なのに」 「私なんかペスト撲滅を真剣に研究していたのにね。人間に滅びられては困るから」 「今度のウィルスもなんとかなりそう?」 「努力はしている。人類と共に22世紀が迎えられるようにね」  彼女は目の前のバーカウンターに置かれたグラスを手に取った。 以前と変わらない蠱惑的な笑みを浮かべながら、彼女は私の顔を見つめて言った。 「キリストの血に」  私もグラスを持ちあげて応えた。 「キリストの血に」 (了)
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