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そこに横たわるものがある。少数の限られた人には特別なものに見えるが、大多数の人には取るに足りないもの。私はソファに横たわり、うたた寝をする彼に毛布を掛けた。
離れていて時々会うからこそ、世話を焼くのも楽しい。毎日一緒に暮らしたら、ソファでうたた寝なんてされたらイライラする。
そう自分に言い聞かせた。
「悪い。ここで寝るつもりなかったんだけど…疲れてて。向こう行こうか?」
寝ぼけながら、私の手を引く彼は当然のように寝室に誘おうとする。今日はなぜだか無性に腹が立つ。
「ごめん、持ち帰りの仕事があるから」
私はリビングでノートパソコンを広げる。差し障りのないレクリエーションのレジュメ作りの画面に向かう。画面を覗き見する彼。
「それ、急ぎじゃないよね?外でご飯でも食べてどこかに泊まる?」
「そういうことじゃなくて…。ソファでうたた寝したら、ちゃんと怒ってくれる人の所に帰ったら?」
「どうした、急に」
「籍は入ってなくても長く一緒に住んでるんでしょ。不味いんじゃない?」
「お互い、外でのことは黙認だから」
黙認…。その言葉に静かな怒りを覚えた。そして、彼の言う通り全く急ぎではない、レクリエーションのアイディア出しを始めた。
「ごめん、言い方が悪かった…」
適当に箇条書きで打っているキーボードの指先を、彼がそっと撫でる。いつもなら心地よいはずの彼の指先。今日は芋虫が這い回るように気色悪く感じた。
「もう二度と来なくていい、帰って」
彼の手を振り払うと、ラフなジャケットやバッグを玄関口まで運んで、無理矢理玄関の外に押し出した。
たぶん、少しだけ期待していた。「開けてくれ」と彼にドアを激しく叩かれたり、一度は去っても、コンビニでご機嫌取りのお菓子を買ってきて、呼び鈴を押してくれる事を。
期待は見事に裏切られた。
一時間経っても二時間経っても私の部屋のドアは、ピクリとも動かなかった。
今日から私は、ひとり。
でも今日からは私は、都合の良い女を卒業。
すっきりした。
せいせいした。
さっぱりした。
畳みもせず、とぐろを巻くように横たわる毛布に消臭スプレーを目一杯吹き掛けて、深夜なのにベランダに干した。彼のシトラス系の香水の匂いが消えない上に、消臭スプレーの人工的な似非グリーンの香りが重なり、吐きそうになる。ダメだ、次の休日にクリーニングに持って行こう。
その毛布を部屋に入れる気はなかった。
彼のために私が用意したものだった。
クリーニングじゃない、粗大ゴミに出そう。
スマホで自治体の粗大ゴミの日を確認して、スケジュールに入れた。
深夜一時になり、シャワーを浴びて寝ようとした。何か食べた方がいいのだろうけれど、二人で食べるつもりで作った、水餃子スープと麻婆豆腐、油淋鶏には手が伸びない。
私は中華料理がそこまで好きじゃない。すっかり冷めてしまったご飯を温めることもせず、彼が好きで仕方なく付き合って食べてるキクラゲをご飯に掛けて一口、口に運ぶ。
キクラゲがまるでゴム紐のように感じる。キクラゲのパックを冷蔵庫に戻して、自分用のシソゆかりのふりかけを掛けて、ご飯を食べようとする。シソの赤紫が冷えた白い米粒に、まだら染みを作るように滲む。
「もう、面倒臭くて油っぽい中華を作らなくていいんだ」
虚しい独り言が響く。シソゆかりご飯も全然進まないので、小さなビニール袋に生ゴミと一緒にまとめた。ピーマンや長ネギの野菜クズの上に赤紫のまだら染みのご飯が重なる。
「私はふりかけみたいなものか…。毎日同じご飯だと飽きるから、気分転換に私の所に来てただけ。よく考えたら最低の男」
録に食べられないまま、倒れ込むようにベッドに突っ伏した。ベランダでは強風で毛布が煽られているのか、バサリバサリと耳障りな音が響き続けている。あの横たわっていた毛布が揺れている。耳障りなはずの音なのに、なぜかその音を聞くと安心していき、明け方に眠りについた。
どのくらい眠っていたのだろう。呼び鈴の音で目が覚める。ベッドサイドの時計を見るとお昼近い。頼んでいた化粧品の宅配便かもしれない。慌てて、パジャマの上に、スカートとカーディガンを着て玄関に行く。
「クマネコ急便です」
ああ、やっぱり宅配便か。がっかりしつつ、玄関を開ける。
「お届けものはまだまだあります」
三段重ねの段ボールを抱えていて顔が見えないが、彼の声だ。勝手に玄関に入り荷物を積み上げている。
「家出なら他を当たってくれる?」
強かって冷たくあしらおうとする。
「今日からここに住んで、ここに毎日帰る」
有無を言わせぬ口調で、3つの段ボールの荷解きを始めた彼。
「毎日一緒だとソファで寝たら怒るよ、私だって」
「ソファじゃなくて、ソファベッドに買い換えよう。二部屋に寝室を分ければ、優菜が夜勤の時に俺がうるさくしなくて済むし」
「勝手に部屋割りや家具まで決めないで…」
「嫌なら好きなときに追い出せばいい」
玄関を閉めて荷解きでぐちゃぐちゃな足元を掻き分けて、彼が私を抱き寄せてきた。私の部屋にはないシャンプーの香りがする。元の家でお風呂に入ってきて、それから…。いや、その前か。…長年暮らしていた彼女と…。うっすら想像がつく。
家出の荷物同様、軽く抱えるように私をソファに寝かせて、カーテンをきっちり閉めようとする彼。カーテンの向こう側に干された毛布を見つけて、
「ありがとう、毛布干してくれたんだ」
まるで私の迷いや未練を目ざとく見つけたように、ベランダから毛布を取り込む彼。また、畳まずにとぐろを巻くように置く。こういう適当な所が許せない。
ベッドと違って、軋む音がしやすいソファ。音を立てないように、優しく媚びるような態度でソファで彼に抱かれていると、とぐろを巻いた毛布も、後で私が畳めばいいかと思ってしまう。
「ずっと一緒にいるから、愛してる」
甘く耳元で囁く彼。
この、煮ても焼いても食えない三十路男をいつ追い出すか。タイミングを誤ると、私の20代後半が台無しになる。彼の術中にハマったフリをしつつ、二十代半ば、介護福祉士、共働き希望というカードを使って、こっそり婚カツをしよう、彼の肩に夢中でしがみつくフリをしながら、ぼんやり考えていた。
粗大ゴミ行きになるはずだったあの毛布は、しぶとく部屋に戻ってきた。
(どうせここからまた家出する…)
冷めた頭なのに体の芯は熱い。それでも、心は頭より冷えていた。胸元には、彼が駅前のデパートで買ってきたネックレス。ルビーが薔薇の形に並んでいた。こういうプレゼントで油断させて、気がつくと夜逃げのようにいなくなる癖に。
逃げられる前に、逃げてやる。
どんなに言い繕っても、私は忘れない。
「お互い外でのことは黙認だから」
根は自己中心的な男。
今日から私は、婚カツしよう。
前の家の女と今の家の女、二回もアレを梯子したせいで、相当疲れているのか午後の中途半端な時間に彼はぐっすり眠っている、あの毛布にくるまって。
早速、婚カツアプリに登録して、色々なプロフィールを眺めてみる。細かく設定された条件で絞ってみたら、見慣れた顔写真。
『純、28歳。アパレル勤務だからオシャレっていわれる。希望:25歳まで』
あ、彼が…純也がいる。乾いた笑いがこみ上げる。嘘をついて年齢をサバ読み。28歳じゃなく32歳なのに。彼の希望年齢ギリギリってことか、私は。アパレル勤務といっても量販店なのに、プロフィールもかなり盛り過ぎ。
アプリには純也みたいないい加減な男もいるのか。やっぱり結婚相談所にしよう。
外でのことは黙認、嫌なら追い出せばいいと言ったのは彼なんだから。結婚相談所の資料請求をして、私は自分の寝室に戻った。
一度は部屋に戻したあの毛布を早く捨てられるように、いい相手を見つけよう。婚カツアプリの方で、純也に別人を装ってメッセージを送ろうとして、慌ててアプリを退会した。
今いい加減な男が変わるはずがない。
純也はソファをソファベッドに買い換えると言っていた。その前に、やっぱり明日にでも追い出そう。一緒に住んでいたら、変な期待をして必ず裏切られる。勝手に持ってきた荷物の段ボールと、あの毛布も一緒に、外廊下に積み上げてしまえ。
寂しさを埋めようとする私は、純也と同類の人間になり掛けていた。横たわる孤独を恐れて、なし崩しの底なし沼に落ちてたまるか。
横たわっているのは孤独だけではない。
この部屋中にはびこるように根を張った腐れ縁。横たわった腐りきった根を断ち切る。
明日では遅い、今日から私は強くなる。
ソファで熟睡している純也の毛布を剥ぎ取り、段ボール三段を外に運び出し、眠たそうに目を擦る彼に告げた。
「逃げるように彼女の家を出てきたんでしょ?肝心なときに人と真剣に向き合えない人とは暮らせないから」
淡々と凍てついたような声で話す私に、昨日とは違う本気を感じたのだろう。
「もうわかったよ」
彼は口を尖らせて、勤務先の店のマネキンのような、ラフなカジュアルコーデをのっそりと着て、出て行った。
くすみブルーのジャケットに黒のアンクル丈のパンツの後ろ姿。私が一喜一憂して心を預けていたのは、横たわった、ただのマネキンだったのか。
ドアに鍵を掛けたとき、もう迷いはなかった。外に閉め出されて、段ボールとあの毛布をせっせと車に運び、アパートの外階段に響く彼の足音や、車のエンジン音。一つ一つの音がする度に、この部屋にへばりついた腐れ縁の根が、ぷつりぷつりと静かに引き抜かれて床に落ちているようだ。
彼の車が走り去った後、部屋のあちこちに散らばったはずの腐れた根と、彼が横たわった気配を消すために、丁寧に掃除をした。
掃除機のゴミやコロコロと回す粘着テープに、彼のピンクベージュがかった茶色に染めていた髪が絡まっていた。これが腐れた根か。部屋を覆いつくしていた、腐れた縁の根はたった三十分ですっかり干からびていた。
ゴミの始末をすると気が晴れた。
今日から私は自由だ。
(了)
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