385人が本棚に入れています
本棚に追加
ep.2
シャワーから出て来ると、待ってましたとばかりに甘ったるい女の声が聞こえた。
「出流、今日、車はどうしたの」
「言ってなかったか、ぶつけられたんだよ。事故」
「本当に?」
「俺の車じゃないけど」
「奥さんの?」
「そう。アルファロメオ」
「そんな日に、ここにいていいの」
「また買えばいい」
「ひどいひとね」
ベッドに浅く腰掛け、サイドチェストに伏せておいた携帯を手に取る。まだ水滴の残る背中に女はすり寄り、携帯の画面をのぞき込む。プライバシーを覗かれても、何の反応も示さない俺の対応にため息をつき、女はもう一度ベッドに仰向けになった。
「ねえ、今日は泊まっていってもいいでしょう」
「・・・だめだ」
「どうして?明日は休みなんでしょ」
「休みでもだめだ」
「他にだれかいるの」
「他?」
「奥さんとあたし以外に」
「・・・さあね」
女はもう何も言わず、するりとベッドを降りた。ダークグレーの絨毯に散らかったワンピースと下着をかき集めて、バスルームのドアを閉める。水の音をBGMにガウンを引っかけ、ベランダに繋がる窓を開けた。郊外のマンションからの眺めとしては十分だ。煌めく夜景の代わりに、ゆらめく夜の海と住宅街の灯りが望める。
ベランダとリビングを区切るガラス戸を後ろ手に締めて、ある番号に電話をかける。五回の呼び出し音のあと、くぐもった男の声で「もしもし」と聞こえてくる。
「ああ、俺。電話くれたか」
「・・・遅いぞ。どうしてすぐ電話に出ない」
「女といた」
「またか」
「俺の勝手だろう」
「勝手は構わんが、やることはやってくれないと困る」
「来週までに三作品、だろう」
「・・・そうだ。大丈夫だろうな」
「信用しろ」
電話の相手が押し黙る。少し間を置いて、わかった、と答えた。また連絡する、と言ったのを合図に、ほぼ同時に通話を終えた。ガラスにシャワーを浴びて出てきた女が写り込んでいるが、彼女が着替えを済ませて出ていくまで、俺は部屋には戻らなかった。
ひとりになった部屋で、ベッドに脱ぎ散らかした服を一枚づつ身につけた。財布をポケットに突っ込んで表通りに出てタクシーを拾い、山の麓に向かった。
灯りの消えたぼろぼろの東屋の前でタクシーを降りる。運転手はこんなところで降りる男に、バックミラー越しにいぶかしげな視線を送ってくる。俺は無視して東屋に向かって歩いた。ぎぎい、と鳴るドアを開けて中に入り裸電球から下がる紐を引くと、何度か点滅して三度目にやっと明るくなった。
部屋を取り囲むように木の棚が並び、そこには素焼きの状態の器がずらりと並んでいる。湯飲み茶碗、一輪挿し、スープ皿・・・あらゆるサイズの焼き物の中心にはろくろ。ろくろの前に据えられた椅子の背に掛けられた、薄汚れたタオル。それを頭に巻き付け、俺はどさりと椅子に腰を下ろす。
手は動かない。
ここのところこればかりだ。取りかかろうとすればするほど、気分が沈む。理由はわかっているが、注文は次々と入る。やらざるを得ない。
ペダルをゆっくりと踏み込むと、ろくろが回り始める。水をつけた手で泥を優しく支える。指先を絶妙に動かすと、泥はみるみる魅力的な曲線を描き始める。焼いてもいない、色も付いていない、ただの泥のかたまりが命を吹き込まれて変化してゆく。しかし形が決まってゆくにつれ、俺は息苦しくなってゆく。
「ちっ・・・」
形が整い始めた粘土をぐしゃりと歪ませた。それまでの曲線は一気にゴミと化した。
「・・・・・・くそっ・・・」
立ち上がった勢いで椅子が倒れる。振動で近くの棚に並んだ器がカタカタ音を立てた。頭から外したタオルを適当に投げ捨て、大股で部屋を出る。戸棚に置いた煙草の箱とライターをひっつかみ、東屋の扉を開けた。
不調の理由。それは先月のこと。ある週刊誌の記者に撮られた一枚の写真だった。
(だから気をつけろって言っただろうが!)
(撮られて困ることはねえよ!出したきゃ出せよ!)
(そうはいかないんだよ!相手は政府の要人だぞ?!)
(知るか!)
(お前はどうしてそうなんだ!全部お前のためにやってやってることを忘れたのか?!)
(頼んでねえよ!俺は俺でやっていけるって言ってんだろ!)
(・・・・・・甘いんだよ、お前は)
週刊誌がかぎつけたのは、内閣官僚のスキャンダルだった。
世界でも引っ張りだこの陶芸家にぜひ会いたいと言っている、と共通の知人に招かれて行った食事会。たっぷりと腹に肉がついた官僚の男と知人の三人で懐石料理を食べた後、女将が知人に耳打ちした。その直後、知人は席をはずした。
官僚は二人になると、にっこり笑って背後の襖を開けた。そこに見えたのは、一組の布団。
あのおぞましい光景を思い出しながら、たっぷり煙草の煙を吐き出した。想像はついていた。官僚の男はテレビで数回見たことがあったが、いかにも好色そうな顔をしていた。
臭い息を吹きかけられて、反射的に押しのけた。それでも引かず、シャツのボタンを引きちぎられた瞬間に男を殴り倒して料亭を飛び出した。その姿を写真週刊誌に撮られたが、官僚側のスタッフが揉み消し、掲載は免れた。
ただ、自分は造りたいだけだった。
あの記事が週刊誌に出たとしても、それはそれで構わなかった。田舎にひっこみ、貯金をはたいてたった一人、焼ければ良かったのだ。だがそれは許してもらえなかった。「桧垣出流」は既に、俺の知らないところでブランドになっていた。俺の一存では何一つ、決められることはないのだ。
その時、ふと、きな臭さに東屋を振り向いた。
「・・・えっ・・・」
最初のコメントを投稿しよう!