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第一部 ep.1
焦るとろくなことがないとはよく言ったものだ。目の前の赤いアルファロメオのケツに、がっつり頭を突っ込んだ俺のビートル。免許を取って十年、事故を起こしたのは初めてのことだった。
俺はアルファロメオの後に着いて路肩に停車し、憂鬱な気分で車を降りた。へこみ具合からしても、運転手にもまあまあダメージを与えているに違いない。
どうか、大きな怪我ではありませんように。運転席のドアが開いた。俺はなんとなく上等なスーツを着たビジネスマンが出てくるのを想像していた。ところが、出てきた足はスニーカーを履いていた。こなれたデニムにグレーのドルマン袖のセーター。肩より伸ばした波打つ黒髪をひとつにまとめ、眉間に皺を寄せ、降りてきたのは三十代半ばと見える、細身の男性だった。
「申し訳ありません、お怪我はありませんか」
アルファロメオは赤信号できちんと停止していた。気が急いていた俺は青に変わる直前に距離を詰めてしまった。完全に俺が悪い。男性は無表情に車の後ろに周り、俺が掘ったオカマをじっと見下ろした。そして俺を見て言った。
「・・・・・・困ったな。急いでるんだよ」
「すみません・・・警察呼びます」
「ああ・・・うん、よろしく」
明らかに不機嫌な男は、俺を一瞥するとふいと自分の車の助手席側に回り込んだ。俺が警察に連絡を入れている間、彼も誰かに連絡を入れていた。怪我が無かったのが不幸中の幸いだが、ひどく気難しく見える。電話口の相手に向かって、終始不機嫌に低い声で文句を言っていた。責めを追うべきは俺だと思うのだが、彼の怒りの矛先はなぜか電話の相手に向いていた。
警察の到着を待つ間、それぞれが電話を終え、俺は様子を伺いながら男に近づいた。
「あの・・・俺、こういうものです」
名刺を差し出しながら、俺は彼の顔色を伺った。初めて真正面から彼の顔を見て、どこかで会ったような気がした。そして職業柄、首から上の男にしてはきめ細かく白い肌に視線が吸い込まれた。
「ちょっと待って、名刺・・・」
彼はデニムの尻ポケットから財布を取り出し、淡いグレーの名刺を一枚抜き取った。お互いの素性を知って、驚いたのは俺のほうだった。
「桧垣出流さんって・・・あの・・・?」
どこかで会った気がしたのは、こちらが一方的にテレビ画面の中で見ていただけだった。
桧垣出流。
有名陶芸家で、その作品がロンドンでオークションにかけられ、とんでもない額で落札されたことで一躍有名になった。桧垣氏は答えず、俺の名刺を真剣な顔で凝視している。
「ビューティーアドバイザー兼、メイクアップアーティスト・・・」
偉そうな肩書きだが、要するに俺の職業は美容部員だ。それも、ちょっと珍しいタイプの。
「玉井圭吾っていいます」
「玉井くん、ね」
お互いの名前を知ってすぐに、警察が到着した。初めての事故で緊張していたが、警官は世間話でもするような軽さで話しかけてきた。
小一時間で警察の措置は終わった。桧垣氏のアルファロメオはレッカーされ、気づいたときにはタクシーで彼本人もいなくなっていた。
「玉井さん、タッチアップお願いします」
「あ、はーい」
切り替えて、いつも通り職場に出た。タッチアップというのは、カウンターでお客様にメイクやスキンケアのデモンストレーションを施すこと。自分で言うのも何だが、俺のタッチアップは人気で、一度経験するとベースメイクから一式、まとめて買って行ってくださるお客様が多い。
「いらっしゃいませ、比奈子さん、お久しぶりです」
「また来ちゃった~、新作のお試しお願いしたくて」
「ありがとうございます、今作のクリームアイシャドウ、テクスチャーが新しくなりまして。お似合いの色ありますよ」
俺、玉井圭吾は自分の顔にもメイクをして、美容カウンターでBAをしている。女装ではない。メイクが好きなだけ。それが俺らしさだと思っている。
世の中ではメイク男子とか美容系男子とか言われるらしいが、俺は高校生の頃からこうなので、今さらどの枠に組み込まれても気にならない。隙無くばりっとメイクをして、低い声で、リップを引いた唇で接客するのが、お客様にとんでもなくウケるのだ。ウィンウィンだと思う。
「玉井さんの今日のリップ、何番?」
「これ五番の、ストロベリーナイトです」
「すごくいい発色~、それお願いしたいです」
「かしこまりました」
お客様が嬉しそうに、鏡の中の自分の顔を見て微笑むのを見ることが、俺の幸せだった。今日も三人タッチアップをして、三人ともが新作のリップやシャドウ、ファンデーションを購入して下さった。
「たまちゃん、お疲れさま」
「実希子さん、お疲れさまです」
休憩時間に、先輩でチーフの実希子さんが話しかけてくれた。
新人研修からずっと世話になっている彼女はベテランBAで、かつ動画投稿サイトではメイクアップアーティストとして人気を博している有名人。四十代半ばとは思えない美肌と、引き締まったボディラインが美しい彼女は、俺の一番大事な先輩で、友人だった。
「事故ったってほんと?」
「そうなんですぅ・・・」
「怪我なくてよかったわね・・・相手は大丈夫だった?」
「それが!聞いてくださいよ!」
俺は事故の相手が陶芸家の桧垣出流だったことを実希子さんに告げた。
「ええ!桧垣出流に会ったの?!」
「そう!アルファロメオ乗ってた!」
「やば・・・ねえ、やっぱりいい男だった?」
「あ~・・・なんだかもう一杯一杯で、しっかり見てないですけど、そういえばめっちゃ顔整ってました・・・」
「陶芸家ってだけで渋いのに、顔が俳優みたいで、天が二物を与えたもうたってのはああいう人をいうのよね」
「実希子さん、桧垣さんみたいなのタイプなんですか?」
「あ、あたし年下は無理~」
「なにそれ」
実希子さんは紙パックの野菜ジュースを無音で飲んでいた。普段口にするものにはこだわりがあり、あめ玉ひとつ舐めるにもノンシュガーを選ぶ。俺は対照的に、半分以上砂糖で構成されるミルクコーヒーのパックにぷすりとストローを刺した。
「たまちゃんはどうなの?タイプだった?」
「うーん・・・・・・本当は好みの顔なんですけど、やっぱりお互い第一印象が良くなくて」
「事故の時って、冷静さ失うもんね」
「向こうに怪我がなかったことが本当に幸いでした。あとは弁護士挟むんで直接会うことはないけど・・・タイプだったのかなあ」
「連絡先は?」
「名刺交換しました」
「全部済んだら連絡してみたら?」
「・・・・・・勇気ないなあ」
実希子さんは俺がゲイなのを知っている。その他の同僚も何となく知っているとは思うが、オープンにはしていないので、ただのメイク好きの男だと思っている子も多い。
「たまちゃん、事故だって出会いのひとつよ?大恋愛が始まるかもしれないんだから」
「え~、だって桧垣さん絶対ノンケだし」
「食事するくらいはいいじゃない?目の保養的な」
「確かに!それはいい!」
「あはは、現金~~」
俺は実希子さんが大好きだ。
仕事で彼女の右に出る者はいない。そしてプライベートでは優しくてユーモアがあり、みんなに好かれている。この職場に長くいられるのも、実希子さんのおかげだ。俺のセクシュアリティに対しても、ここまで偏見なく接してくれる人は、そういない。
そして彼女には先見の明があり、さらっと言ったことがだいたいそのとおりになることが多い。
この時の話も、恋愛に苦手意識を持っていた俺には、それがいずれ現実になるなんて思いも寄らなかった。
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