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ep.29
「たまちゃん!こっち!!」
手招きする実希子さんのいる方に、小走りで駆け寄った。キャップにフードを重ねて被り、サングラスで顔を隠した。いっそ女装をしようかとも思ったが、背が高いので一般人の中ではむしろ目立つ。仕方なく芸能人のように顔を隠して街を歩くしかなかった。
「大丈夫?」
「今日はなんとか」
「入って。ここは死角になってるから」
実希子さんの事務所の裏口から入ると、香ばしいコーヒーの香りがした。テーブルにはケーキの箱と皿。今日はもう一人の事務の女の子は休みのようだ。
「それにしても毎日大変ね」
「はい・・・・・・」
桧垣さんから電話が来たのは一ヶ月前。沈んだ声で桧垣さんは開口一番、「迷惑をかけることになるかもしれない」と言った。
あの夜、写真週刊誌に撮られていたと聞いて、背筋が凍った。桧垣さんから転送してもらった掲載予定の写真の中で、俺は自分でも恥ずかしくなるくらい甘い表情で桧垣さんを見つめていた。離婚がすっぱ抜かれる可能性がある、とは聞いていたがまさかそれより先にこっちが話題に上るとは。俺はきっと一般人として素性を隠されるが、桧垣さんはそうはいかない。それも離婚の原因として報道される可能性もある。もともと同性愛者を公言しているアーティストは多いが、桧垣さんの場合、離婚の時期が近すぎて体裁が悪い。翠川さんが記事の差し替えのために動いていたようだが、結局間に合わなかった。
翌日からどこで調べ上げたのか、アパートの前にレポーターが詰めかけるようになり、ビジネスホテルに避難している。しかしそこもすぐに見つかり、実希子さんの事務所に泊めてもらうことになったのだ。
「桧垣さんから連絡は?」
「メールは来てます。直接会ってはいないですけど」
「有名人は大変そうね。さっきもワイドショーでやってたわ」
「俺の名前って出てました?」
「ううん。都内在住の元美容部員Aさん、ってなってた」
「男の美容部員、ってだけで関係者は俺を思い浮かべますよね」
「もう辞めてるんだから大丈夫よ。なにかあったらあたしが守ってあげるわよ」
「すみません・・・」
「それより、桧垣さんに会えないのが寂しいわね」
「・・・・・・」
そう。翠川さんからの連絡で、この騒動が落ち着くまで、しばらく桧垣とは会わないで欲しい、と言われたのだ。当然の処置とはいえ、俺たちは結局あれきり会えていない。
「有名芸能人同士が結婚でもしないかしらね?そうしたら情勢が切り替わるのに」
何気なく実希子さんは言った。
桧垣さんの奥さんの顔が浮かぶ。どういう理由で離婚が成立したのか、どちらから言い出したことなのか、俺は何も知らない。
俺は今回のことで翠川さんに怒られると思っていた。お前が出流に近づくからだ、と責められると思っていたが、彼はただ謝るだけだった。どうして彼の態度が軟化したのかはわからない。俺の中で翠川さんの記憶は、個展で冷たい視線を浴びせられたところで止まっている。
「実希子さん、俺・・・・・・」
「うん?」
実希子さんはドリップポットからコーヒーを注いでいた。細い三角形に切り分けたアップルパイを添えて、俺の前に差し出してくれる。
「桧垣さんに、ちゃんと好きだって言ってないんです」.
「え?」
「こんな・・・こんなに迷惑かけることになるなんて思ってなくて・・・ちゃんと、伝えておけば良かったなって・・・」
「彼は当然わかってると思うけど?」
「それでも・・・なしくずしにああいうことになる前に・・・」
「たまちゃん」
実希子さんの口調が強くなった。
「間違ってるよ」
「え?」
「たまちゃんは自分が一方的に桧垣さんを好きで、責めを追うべきは自分だと思ってない?」
「・・・・・・」
「桧垣さんはちゃんとたまちゃんのことを好きよ。じゃなかったら、記事になるとわかった時に真っ先に切るでしょう」
一般人との恋愛報道では、「親密な関係ではありません」「交際はしていません」だのと芸能人が釈明する場面をよく見る。桧垣さんはまだ何も声明を出していない。翠川さんからは、「しばらく迷惑をかけるかもしれないが、桧垣から必ず連絡を入れさせるので、それまで待っていてください」と言われている。
「あなたを守ります」と言われた気がした。
素直に嬉しかった。桧垣さんの相手として、認められた気がしていた。でも、騒動が大きくなるにつれて不安は大きくなっていった。
立場が違いすぎる。桧垣さんは気にしないだろうが、報道を見るほどに自分がまた「何者でもない」ことをつきつけられてしまう。
実希子さんは言った。
「あたしから見て、桧垣さんはかなり本気だと思う。たまちゃんは彼の立場に怖じ気づいちゃうかもしれないけど、心配ないわよ」
「そう・・・でしょうか」
「たまちゃん、恋愛は対等よ。彼だってたまちゃんと向き合うために走り回ってるはず。きっと連絡をくれるから、待とう?ね?」
「・・・・・・はい」
アップルパイを食べながら、実希子さんはこれからの仕事についての説明をしてくれた。すでに始まっている化粧品の開発の進捗状況、パッケージのデザイン、ホームページのデザインなど、会議は多岐に渡った。
少し気が紛れた。やることがあるほうが、桧垣さんとのことを考えすぎずに済んだ。なのに。
実希子さんが買い出しに行くと出て行って、ほんの数分後。俺の携帯が鳴り始めた。
表示された名前は「桧垣出流」。俺は思わず自分しかいないのに、あたりを見回してしまった。そしておそるおそる通話をタップした。
「も・・・もしもし・・・」
「ああ・・・桧垣だけど。今話せるか」
「は、はい、大丈夫です」
「迷惑をかけてる。いろいろ不便だろう。本当に申し訳ない」
「俺より、桧垣さんの方が大変ですよね。身体とか、大丈夫ですか?」
「俺は平気だ。追い回されるのには慣れてる。それより・・・・・・今どこにいる?」
「えっと・・・今は実希・・・仕事の先輩の事務所にいます」
「これから迎えを行かせる」
「え?」
「会いたい」
「・・・えっ・・・?」
聞き間違いかと思った。淡々と、世間話のトーンで桧垣さんは「会いたい」と行った。ふわふわした状態で電話を切って十分後、実希子さんが戻ってくるのを待って、俺は桧垣さんに言われたとおり、裏口につけられたワンボックスカーに乗り込んだ。車体にはハウスクリーニングの社名が印刷されている。
運転手の顔は知らないが、桧垣さんに頼まれました、と彼は言った。状況としては結構危険だと思うのだが、何故か俺は一も二もなく信用した。
ワンボックスカーは裏道を通り、とある高層マンションの地下駐車場に滑り込んだ。途中まで一、二台車が追いかけて来ていたが、知らないうちに撒いていた。運転手はマンションのカードキーと部屋番号だけを俺に伝えると、にっこり笑って駐車場を出て行った。
どう見てもとんでもなく高級なマンション。桧垣さんの自宅なのだろうか。ここで作業をしているとは思えないので、工房は別にあるんだろう。とりあえずエレベーターを探し、指定された部屋へ向かう。
ホテルのような絨毯が敷き詰められた廊下を進む。つきあたりの部屋の扉には「Y・H」と書かれた小さなプレートが下がっていた。カードキーを渡されるということは、インターフォンを鳴らさずに入ってこい、ということだろう。
俺は緊張しながら、カードキーをセンサーに当てた。カチャ、と解錠音がしたのを確認してから、ドアを引く。
ふわりと、いつも桧垣さんから漂う香りが鼻をくすぐる。香水なのか整髪料のたぐいなのかはわからない。とてつもなくほっとして、俺は一歩中に足を踏み入れた。
そのマンションの間取りは変わっていた。大理石のような石のタイル張りの玄関には靴箱もなにもない。入るとすぐにもう一枚扉があり、開けるとだだっ広いリビングが開けている。ほかの部屋に行くにはそこを通らなくてはならない作りらしい。生活感の感じられない、黒を基調としたシンプルなインテリア。所々に桧垣さんが作ったと思われる陶器が飾られている。部屋の一番目立つ場所には、彼の作品の中でも珍しいマットな質感の黒い花器がある。子供の身長ほどの大きなその花器には、朱赤の花が生けてあった。
リビングの真ん中を陣取る大きなソファに座っていた人影が、ゆっくりと立ち上がった。
「桧垣さん・・・」
桧垣さんはラフな出で立ちだった。上下とも黒の、麻の作務衣を着ている。無精髭が伸び、少し疲れているように見えた。
入口で立ち止まった俺に、桧垣さんは無言で右手を差し伸べた。
その口が、けいご、と動いて、俺の心臓は高鳴った。気が付くと俺は彼の腕の中に飛び込んでいた。
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