序:キヤルナにて、はじまり

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 心に刺激が欲しいなら記憶の古傷に触れてみよう。ずきりと胸が痛むだろう。  これが、お前の意志だ。痛みがあるからお前は抗おうとできるのだ。  傷の数こそ、お前の力だ。  そう、思っている。  その女、グレイスは瓦礫に浮かぶ夕陽に狙って銃を構えた。砂塵の混じったぬるい風が吹いている。戦いによって変わり果てた町並みにかつての面影は薄い。  斜陽の前には、小さな鐘塔(しょうとう)佇立(ちょりつ)している。吊り鐘の向こうで焼ける陽が真っ赤な目玉のようにも見える。 「見てんじゃねえよ、カス」  引き金を絞った。撃鉄が雷管を打つ。銃口から乾いた音が火を吹かせ、一発の弾が空を切る。  鐘に当たった。六連式五〇ミリ口径の弾丸が鐘塔の頂を突き動かした。  カアン、カアン。  錆びついた町に鐘が響いた。 「グッバイ、マイ、ホーム」  寂しげな音色にひとりごちる。いつぶりだろうか、この鐘の音を耳にするのは。もう聞く事なんてなかったはずだ。懐かしさがこみ上げるのをグレイスは誰に見せるともなく胸に隠した。 「勝手に滅ぶな、ボケクソが」  空に唾を吐きかけて腿のホルスタに銃を収めると、踵を返した。短く切られた(あかね)色の髪が首元で踊り、紫玉(アメジスト)色の瞳は暮れなずむ東の空を映していた。  その女、軽装である。胴には黒のチェストアーマ―を着けただけで、肩も腹部も晒した格好。濃緑色のカーゴパンツで腰には武具をしまったガチ袋。右には象形を入れた腰巻が揺れ、靴は軍靴を履いている。  唇に化粧気はなく、肌は日に焼けており、目つきが常にギラギラとした、気配が獣に似ている女。  グレイスは不機嫌そうに舌打ちをした。 (まだいやがるのか)  足を止めて、目の前にいる奴に問う。 「そんなにお気に召したかい、荒れ地しかねえ田舎だぜ?」  熱を吐き出す不愉快な音。見上げた先には赤く光る両眼があった。  高度知的無機生命体・機械兵(アトルギア)。  手足が異様に伸びた、ヒトの形をしている怪物。鋼色をした無機質な体は家屋の屋根に届くほど。  この町を滅ぼしやがった、だ。  機械兵の眼が明滅する。次の瞬間、鉄の巨体がこちらに向けて突進してきた。狙いは勿論、グレイスである。奴らは人を襲うのに一切の躊躇が無い。人狩り用の殺戮マシンだ。鋼色の長い腕が大きくしなる。鋭く生えた鉄爪が、グレイスの喉を引きちぎる――  それを女は恐れない。 「折角イキってくれてるけどさ」  もう一度、腿から覗くグリップに右手を伸ばす。  銃火裂空(じゅうかれっくう)。 「私の地元(シマ)で暴れんの、やめてくんね?」  銃声一発、風穴三つ。硝煙が視界を白くぼかした。グレイスが撃ち放った銃弾は、機械兵の頭部と胴に致命的な貫通を施した。空いた穴から黒い油が噴出している。機械兵はもんどりうって転がった。まだ、完全に死んでいない。  左手が腰のガチ袋から、一振りを抜く。 「おっと、大人しくしていなよ。でなきゃ、痛くしちまうからさ」  狩猟刀。グレイスはのたうち回る機械兵の頭を踏みつけ、頸部に刃を刺突した。  内部の線を断ち切る感覚。赤い両眼が火花を散らす。機械油をまきちらしながら、今度こそ機械の巨体は死亡した。頬まで飛んだ油を指で拭って、ちろりと舐める。 (()())  不機嫌な眉の間にいっそう深い皺が寄った。  グレイスと機械の遺骸だけがある場所を、ぬるい風が吹いてゆく。茜色の空もそろそろ暮色に染まる頃だろう。かったるい。こんな景色が見たくて来た訳じゃないのに。  かつて捨てたクソ溜まりの地元(シマ)。滅んだところでどうって事はないはずなのに。  グレイスは足元の鉄屑と化した人形に、適当な十字を切ってやる。 「……使徒エランは言いました。私が友を救う時、私は神の代理者としてその慈悲を預かるのです」  語りだすのは、いつか誰かに教わった聖なる話のある一節。口にしながら歩みを前に進ませる。 「もしも友が救われたなら、友は代理者となり他の人を救う資格を得るでしょう。慈悲とは継承されるべきなのです」  (そら)んじている教説は誰に聞かせるともなく、朗々と明快である。 「やがて惨めな人は絶えるでしょう。私たちは神の御心(みこころ)に生かされています……さあ(うた)うのです、神を尊ぶ愛の言葉を。世界に向けた讃美歌を。神は微笑み、あなたにこう告げるでしょう」  軍靴の踵が、パキリと路上の硝子を踏み割った。 「ひれ伏せ愚民ども」  ―― 神様なんかくそくらえ。
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