その一

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 私の住んでおりました借家は旧い建物で陽当たりが悪く、台風が来た時など倒れてしまうのではないかと心配になるぐらいでしたけれど、旦那様の市ヶ谷のお屋敷たいへん大きくて、門もとても立派なものがあって、建物の中は洋風の設えでございました。幼い頃に父に連れられて一度参りました折に、その広さに驚いた事を憶えております。お庭は緑が深く、池には鯉が何匹も泳いでおりました。旦那様が父とどのような話をされていたのか、記憶はございませんけれど、帰り際、長い下りの坂を歩く時に振り返りますと、旦那様はずっと私の方をご覧になって、手を振っておられましたのだけを憶えております。  お屋敷には私の母よりも年嵩のよね子さんという女中さんがいらして、あと、広いお屋敷には庭の世話をしている恒二さんという若者がいるだけのようでした。旦那様の奥様は肺の御病気があって、葉山にある療養場にいらっしゃると聞いておりました。
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