【 第10話 】

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【 第10話 】

 昨夏のある日、午後七時過ぎ。いつも通り仕事を終えて帰路につくとすぐ、スマホが振動した。画面を見ると、初めて見る番号からだった。 「はい、もしもし」 「もしもし! 北村一樹君の携帯ですか?」  焦りと動揺が多分に(まぶ)された、聞き覚えのない女性の声だった。妙に鼻にかかった声が印象的だった。 「はい、そうですが」 「私、お母さんと同じスーパーで働いてる、崎本(さきもと)(みどり)って言います」 「崎本さん、ですか」  初めて耳にする名だ。母さんが俺に仕事の話をすることはほとんどないので、職場のことについては何も知らなかった。 「落ち着いて聞いてくださいね。お母さんの北村夕子さんが、先ほど職場で倒れて、病院に救急搬送されました」 「えっ?」  救急搬送、という言葉に総毛立ち、一気に冷や汗が噴き出してきた。 「搬送先は桐島総合病院です。場所、わかりますよね。すぐに行ってあげてください!」  桐島総合病院は、この工務店から歩いて二十分ほどの場所にある大きな病院だ。了解の意志を伝えた後すぐに電話を切り、病院目掛けて全力疾走した。  病室に着くと、母さんは点滴を受けながら静かに眠っていた。医者の話によると、詳しい検査はこれからだがおそらく過労だろう、とのことだった。数日ゆっくりすれば退院できそうだと言われ、心の底から安堵した。  夜九時過ぎになって、ようやく母さんが目を覚ます。 「母さん!」 「あれ? ここは……」 「覚えてないの? 病院だよ。母さん、職場で倒れたんだよ」 「倒れた……ああ、そっか。そうだね」 「記憶はある?」 「なんとなく。レジ打ちしながら、そろそろ上がる時間だなぁ、なんて考えてたら、急にふらふらっとなって」  顔色は悪く、目も落ち窪んでいる。そういえばここ最近、母さんの顔をまじまじと見るようなことはなかった。十九歳の息子が、母親の顔をじっと見る機会があまりないのは普通のことだろう。どうしても、照れが邪魔をする。 「さっき、医者から話を聞いたよ。過労だってさ。そりゃそうだよ。週六で九時五時のパートをしてさ、八時から十二時までは清掃の仕事だろ? 倒れて当然だって。もっと休みなよ」 「うーん。でもねぇ」 「でもねぇ、じゃないって。金だったら、俺が学生やってた時よりは楽になったでしょ? 家に入れる金も高校時代より増えたし、俺の食費やらスマホ代やら雑費やらもかからなくなったじゃん。もう、ダブルワークなんてしなくても充分食べていけるでしょ」 「うん、そうなんだけどね。なんだろう、長年の習慣っていうかさ。母さん、働いてないと気が済まないんだよ」 「そういう問題じゃないって! それで体壊したら元も子もないじゃん」  いつも、軽口を交えながらなんだかんだ言い返してくる母さんが、俺から目を逸らして黙りこくってしまった。 「聞いてるの、母さん。働きすぎで倒れてるんだから、仕事は減らさなきゃ駄目だって」 「うん、そうだね」  相変わらず俺から目を背けながら、力無く言った。  その時、不意にガラリと病室の扉が開く。美樹叔母さんだった。 「姉さん! どうしたのよ!」母さんが横たわるベッドへ駆け寄る。「旦那と二人で遠出してたんだけど、さっきミドリンから連絡が来て、慌てて飛んできたのよ」 「そうなんだ。ミドリンが」生気のない声で母さんが答えた。  ミドリンというのは、おそらく俺に電話をくれた崎本緑さんのことだろう。叔母さんも同じ職場なので、共通の知り合いなのだと思われる。 「ミドリンが言うには、過労じゃないかって話だけど、どうなの?」 「そうですよ、叔母さん」疲れている母さんに代わり、俺が話を引き取った。 「ああ、一樹君。どうだったの? お医者さんから話は聞いた?」 「聞きました。検査は明日の予定だから断言はできないけど、多分過労だって。叔母さんからも言ってくださいよ。この期に及んで、まだ仕事を減らすことを戸惑ってるっぽいんですよ」 「え……?」 「働きすぎで倒れてるんだから、休みを増やすのは当然ですよね」 「……一樹君、ちょっといい?」  手招きし、俺を病室の外へ(いざな)おうとしている。  すると母さんが、急に声を尖らせながら言った。 「美樹……なんなの。なんで一樹を連れて行くの。ここで話しなさいよ」 「大丈夫よ姉さん。今後のことについて少し話すだけだから」 「変なこと言わないでよね」  叔母さんは小さく頷き、そのまま病室の外へ出て行った。俺も後へ続く。
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