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【 第5話 】
「どうするの? やるの? やらないの?」
日給百万円おばさんは、怒っているわけではなく、かといって柔和ということもない、ニュートラルな表情で問い掛けてきた。不思議なことに、顔にはまったく見覚えがないが、声だけはどこかで聞いたことがあるような気がする。気のせいだろうか。
ベンチに座りながら、傍らに立つおばさんを黙って見上げる俺。でも、どうしても言葉が出てこない。「やります」の一言が喉につっかえ、音として発することができない。
この誘いに乗ることを決意して、ずっとこのベンチで待っていたはずなのに。
叔母さんの話を聞いてから約一週間、これでもかというほどに熟考を続けた。バカバカしいと鼻で笑って忘れるか、キナ臭いにも程があるこの話とまともに向き合うか。
特に事情がなければ、こんな話など一笑に付して終わりだった。
貧乏でも別にいい。贅沢なご飯を食べようとも思わない。欲しいものがあっても大抵の物なら我慢する。でも、母さんの墓だけはどうしても建てたい。一刻も早く。
もし本当に一日で百万円が手に入るなら、母さんが亡くなってから一年以上、一日たりとも忘れたことがない悲願が叶う。そのためならば、多少のリスクなど背負ってもいいのではないか。そう考えていた。
とはいえ、背負えるのはあくまで「多少」のリスクだ。違法性があったり、身の危険があったりするようでは論外。母さんだって、そんなことをしてまで墓を建てて欲しくはないはず。どの程度のリスクかわからない以上、やはり引き受けるわけにはいかないのではないか。
自分の中での賛否が堂々巡りとなる中、つい昨日、俺は答えを出した。
仕事が休みである明日の日曜日、午後六時から七時までの一時間だけ例の公園のベンチに座り続けてみよう。それで何もなければ、この話は忘れる。万万が一、声を掛けられたら……引き受ける。そう決めたのだ。たとえ多少ひどい目に遭おうが、それも青春の一ページだと割り切って。
「あの……バイトの内容は教えてもらえるんですか?」
答えを先延ばしにするようなセリフに、日給百万円おばさん……いや、「にっぴゃくさん」は嘆息した――長ったらしいので、昨日から俺の中では、日給百万を短縮して日百さん、にっぴゃくさん、というあだ名で呼んでいる――。
「バイトの内容は、当日に教えるから」にっぴゃくさんが、一本調子で吐き捨てるように言った。
「それって、おかしくないですか? どんな仕事でも、まずは内容を聞いてから、やるかやらないかを決めますよね」
もし説明されたとしても、それが本当のことなのかどうかの保証はない。それでも、一応聞いておきたかった。
しかしにっぴゃくさんは、にべもなく言う。
「駄目だね。日給百万円も貰えるっていう特殊な条件なんだから、普通のバイト探しと違うのは当然でしょ。とにかく、死ぬことはもちろん怪我するようなこともない。違法性も一切なし。言えるのはこれだけ」
「そんな……もう少しだけでいいから、情報をくださいよ」
声を掛けられたら引き受けると心に決めていたものの、人間の気持ちというのはそう単純ではなかった。やはり、こんな異常な提案をすんなり受け入れられるはずがない。
早鐘を打ち続ける心臓に手をあてがいながら言う。
「にっぴゃ……いや、おばさんだって、異常な話だっていう自覚はありますよね。誰だって、日給百万円だなんて言われたら怖気づきますよ」
「そう思うならやめればいい。別に強制はしてないよ。私は、引き受けるかどうかを聞いてるだけだから」
「……」
「断るならそれでいいよ。じゃあ、私は帰るから。暇じゃないんでね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」思わずベンチから立ち上がる。「誰も断るだなんて言ってないじゃないですか」
「じゃあ、やるんだね」無表情のまま俺の目を見据える。
「や……やり……」
冷や汗が出てきた。動悸も相変わらず激しい。本当に引き受けていいのか。
「どっちなの? あと十秒以内に決めてね。別に、無理してやらなくたっていいん――」
「やりますよっ!」
にっぴゃくさんが俺に興味を失くしていくような気配を察し、つい勢いで言い切ってしまった。
「……いいんだね。本当にやるんだね」
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