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【 第9話 】
ふと、ノートを見返してみる。三十ページあるノートのうち、すでに十五ページほどが埋まっていた。残り半分だ。ここまでペンが止まらないとは、自分でも驚きだった。
後ろを振り返り、俺の部屋にある壁掛け時計へ目をやると、もう午後一時を回っている。まだ一時間ぐらいしか経っていないかと思っていた。
そろそろ昼食の時間ではあるが、不思議なことに全くお腹が減らない。そんなことよりも、思い出に没入したいという気持ちに占領されていた。
再び、幼少期から振り返る。子供の頃の思い出として浮かんでくるのは、イタズラを除くと、やはり「貧乏」だった。
***
貧乏を意識し始めたのは小学校四年生くらいだが、当然、その前から我が家は経済的にかなり困窮していたはずだ。
幼い俺をできるだけ一人にしないよう、そして一緒に晩御飯を食べられるよう配慮し、時給は安いものの、昼の仕事で時間の融通も利く、近所にあるスーパーのレジ打ちの仕事をしていた。
実際にいくらもらっていたのかはもちろん知らなかったが、中学生になった頃には、大体予想できていた。しょっちゅう求人募集が出ており、そのスーパーの時給が九百円だということを知ってしまったからだ。
母さんが働いていた時間は午前九時から午後五時まで。拘束時間は八時間だが、一時間の休憩があるため、時給が発生するのは七時間分。よって、一日に得られる金額は六千三百円。週五勤務だったので、月にすると大体十四万円前後のはずだ。長年勤めていたので、途中からは多少時給も上がったのかもしれないが、上昇幅は雀の涙程度だろう。
あの頃は、相当生活が苦しかったはずだ。額面十四万くらいの給料で、家賃を含めた生活費を賄っていかなければならなかったのだから。一体どうやって凌いでいたのか、今思うと不思議で仕方ない。
当時は何もわからなかったが、母さんと二人で暮らしていたこの家で一人暮らしをするようになって思い知った。人間、こんなボロアパートでただ生きるだけでも結構な金額が必要となるのだ。
実際母さんは、俺が中学に入ってからはパートを週六に増やし、高校に入ってからは、夜の清掃の仕事も始めた。そうでもしなければ生活が成り立たなかったのだろう。
俺は、高校に入ってからすぐにラーメン屋の厨房で働き出した。時給は八百五十円。学生のうちは週に一度しか働いてはいけない、という母さんから課せられた縛りがあるため、バイト代は月に二万五千円ちょっとにしかならなかった。二万円は母さんに渡し、残りの五千円ちょっとを自分の小遣いとした。
俺のバイトを増やせば、生活もいくらか楽になったはずだ。しかし母さんは、頑として認めなかった。
「学生は、勉強することが本分でしょ。バイト三昧になっちゃ駄目。それじゃ本末転倒よ。お金は母さんがなんとかするから、一樹は勉強を頑張りなさい」
何度か、もっとバイトして家に入れる金を増やしたいと申し出たが、取り付く島もなく却下された。俺のことを第一に考えての言葉だとわかってはいたが、もどかしかった。
高校を卒業して地元の工務店で働き出してからは、これで渡せる金も多少は増えると意気込んだものの、働き始めてから数年は見習い扱いで、手取りにすると十三万円に満たない額しかもらえなかった。飲みの付き合いや、食事代、スマホ代、洋服代、その他の雑費などを自分で賄う必要があったため、毎月母さんに渡せる金額は結局、五、六万といったところだった。
三年も働けば腕も上がり、給料もガクンと上がる。そう言われていたので、まずは三年、黙って頑張ろうと思っていたのだが……その矢先、母さんは逝ってしまった。俺が働き始めて四か月ほど経った頃のことだった。
母さんが亡くなる直前の、あの激動の三日間のことは、今でも忘れない。
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