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「凄い勢いでまわりましたねー」
「それが狙いだからな」
椎野は何とも無い顔で運転席で笑う。
「なぁチィ子、サンドバック叩きに行くか?」
「ほんとですか?!」
「ああ、晩飯買って…どうする?服だけ取って行くか?」
「はいっ!」
部屋着と翌日の服を用意し、スーパーで惣菜を買い込んで椎野と千幸は久しぶりに部屋を訪れた。
「…何赤くなってんだ」
「…ふふ」
ここは椎野と千幸の始まりの場所だ。
初めて椎野に触れて貰えた場所。
不安と幸せと、覚悟と…。
「充弘さんが、あの時ここに連れて来てくれて…よかったです」
「…」
椎野が千幸の肩を引き寄せて、きゅっと抱き締めてくれた。
「千幸が、ここの鍵を選んでくれたからだ…感謝してる」
あの日とは違い、千幸はもう照れずに椎野の背に腕をまわせる。
椎野の好きな食べ物も、嫌いな食べ物も知った。
暇があれば千幸に触れている所も、案外千幸の世話を焼きたがる所も…その仕草のどれもが優しい事も、ここから始まった日々で知れた。
「…感謝してるのは私の方です…」
椎野が頭の上で、ゆっくり息を吸って吐いた。
「あのな、チィ」
「はい?」
「…ちょっと、話しがある」
いつも真っ直ぐ迷いなく言葉を発する椎野が、珍しく言葉を切る。
「…」
「え、何ですか?…良くない話しですか?」
不安になって顔を上げようとする千幸の頭に手を添えて、それもさせてくれない。
ますます不安で、千幸は肩に力を入れて息を詰めた。
「…」
「…」
椎野の沈黙に、千幸は一体何を言われるのかと、黙ってその先を待った。
「いや…また今度話す…」
「ええっ?」
これだけ引っ張ってそれはどうゆう事だと、千幸が顔を上げた。
椎野は苦い顔をして、半分笑って千幸を見下ろしていた。
「…悪い話しなら、早い方が準備が出来ます」
「…いや、まぁ…うん」
歯切れが悪すぎる。
千幸の眉間に皺が寄った。
椎野が困った顔で僅かに首を傾げ、苦笑する。
「椎野さん…今話してください」
キリっと自分を見上げる千幸に、椎野は首の後ろを揉み、瞬きをして…うん、と小さく答えた。
玄関を入ってすぐの、フローリングの上で椎野はそっと片膝をついた。
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