立原 千幸

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立原 千幸

「ちーちゃん、デリバリーお願い!この間のお花屋さん、わかる?」 「はーい!行ってきます!」 渡された数個の料理を店のバイクに乗せて、千幸はエンジンをかける。 オートマ限定の車の免許はペーパーだけど、ここで働く様になってから、バイクの運転はうまくなった。 風を切りながら安全運転で花屋を目指す。 忙しいランチタイム、早く店に戻りたい。 高校は寮生活を選び、大学はこの近くにアパートを借りて過ごした。 仕送りは十分に振り込んで貰っていたから、他の友達みたいに食費を削って服を買うような努力はせずに済んだけれど。 寮生活で、夜食を作る楽しさに目覚め、それを楽しみにしてくれる先輩や同級生のおかげで飲食関係の仕事に着きたいと思えた。 大学在学中から今の店でバイトを始め、卒業してからはそのまま就職した。 それからほぼ1年、今では厨房もホールもデリバリーもこなす、万能選手だ。 「ありがとうございましたー!またお願いします」 立原 千幸は学生時代は剣道に打ち込み、高校の全国大会ではいい成績を残した。 大学ではレストランに就職するのに取れる検定や資格をとることの方に重きを置いた。 本分の大学生としては成績はギリギリだったのは内緒である。 店の裏手にバイクをとめて、さてとりあえずホールに入って、忙しい様ならキッチンにも…と裏口を開けた千幸は、待っていた様に目の前に立つオーナーの表情に首を傾げた。 「立原さん、ちょっといい?」 初老に差し掛かる、人の良い性格が顔に出ているオーナーは、共に働く奥さんも含め、千幸をとても可愛がってくれる。 先程、ちーちゃんと呼んだ彼が、立原さんと呼んだ。 まだここに入りたての頃以来の響きだった。 「…はい?」 忙しい時間帯なのに、オーナーはそのまま裏口から千幸を伴って外に出た。 店から表に出る方向とは逆、突き当たりになる奥の方に、まるで隠れる様に千幸を促す。 「あの、オーナー?」 訳が分からず、その顔を見上げた。 オーナーは170センチを少し上回る位の身長なのだが、155cmの千幸からすれば見上げなければ彼の表情は見えなかった。 いつも優しい笑顔のオーナーの表情は暗い。 「あの、さ…立原さん。確認なんだけどね?」 半信半疑、オーナーの目が困惑の色で千幸を見つめた。 「はい、何ですか?」 「立原さんのご実家…お父さんは何の仕事をしてらっしゃるの?」 ああ、と心の中でため息をついた。 「…」 「いや、うん…そうか」 オーナーの顔に、落胆が乗って…千幸を見つめていた目が困った様に笑った。 「…すみません」 優しい人だ。 汲み取った上で言葉を濁してくれた。 「…今日で、上がらせて頂きます」 オーナーは、一瞬だけ瞳を揺らした。 だけど、ゆっくり頷いた。 「立原さん…いや、ちーちゃんが悪い訳じゃない…僕は君の笑顔も仕事も、すごく好きだよ?…でも、お客さんからの情報でね…そのままってわけに、いかなくて…」 この店が、そうゆう所と繋がりがあると噂が立っては困る。 当たり前の事なのだ。 「はい、本当に…お世話になりました」 千幸は深く頭を下げた。
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