レイの独白

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レイの独白

ライの街を見下ろす丘にイーゼルを立て、白いキャンバスに向かって座ってからはや半日。 東から登りかけていた日は僕の真上をとうに通り過ぎ、既に沈もうとさえしているが、僕はまだここを離れる気にはならなかった。 「…………」 衝動的に画材を持ち、この丘まで来たものの、何を描くでもなくただ座っていることで1日を終えた。 しかし不思議と、僕は後悔を感じていなかった。 『叔父上、貴方の処遇は正当なスタンリー伯爵である父上が決定します。 償いも後悔も父上に向けて下さい。 僕は貴方を許さないが、この7年間、得たものは多かった。 かけがえのないものだ。 だから僕は貴方を殺さない。 それが僕の、アシュレイ・スタンリーの決定だ。 異論は認めない』 日が暮れ、星が広がる空を見上げる。 その空が数日前の叔父とのやり取りを思い出させた。 いや、ずっと考えていた。 貴族とは、何か。 貴族とは、どうあるべきか。 不当に奪われた爵位を奪還し、家を復興し、父上の後を継ぐ。 それが孤児院に来た頃の僕の目標であり、生きる意味だった。 歴史と伝統あるスタンリー伯爵家の嫡男として生まれた僕の、アシュレイの背負うものだった。 しかし僕は孤児院で様々なものを得た。 それはアシュレイでは得ることのなかった、レイだから得ることができたものだ。 孤児院で、そしてライの街でレイとして生きるうちに、僕はアシュレイとしての義務と、レイとしての充足感に挟まれ、悩むことになった。 僕があの場で下した決断は、どちらのものだったのか。 アシュレイは家族を大事にしていた。 だからこそ父上と母上を貶め、お二人の、僕の信頼を裏切った叔父を憎んだ。 そして叔父を倒し爵位を取り戻すことを使命とした。 そのためなら何でもやるつもりだった。 一方、レイは仲間を大事にしたいと思った。 孤児院でエイダやフラムと出会い、様々な苦難を乗り越えて絆を深めていった。 彼らを信じたいと思った。 これから先も、彼らが望む幸せを手にすることができるよう、僕にできることがあればやってやりたいと思っている。 そうか……アシュレイは過去なのか。 当然、僕は貴族としての僕を捨てた覚えはないし、復興が落ち着いたら父上の元で貴族としての教育を再開する予定だ。 しかし、アシュレイが抱えていた思いは、重くのしかかっていたものは確かに軽くなっていた。 なぜ、というのは簡単な話だな。 フラムやエイダに支えられていた。 そしてレイが、強くなったからだ。 だからこそ、アシュレイはあの場で、叔父への憎しみを置き、貴族として在ることを選んだ。 そして同時に、レイは叔父との記憶を受け入れ、叔父を信じることを選んだ。 目の前に7年間憎んできた叔父がいたのに、叔父を憎み倒すことを目指していたアシュレイは、叔父を殺さなかった。 レイとしては、叔父を殺したかったのかというと、そうではなかった。 一度思考を止め、冷えた夜の空気を大きく吸い込み、ゆっくりと吐く。 夜の香りに潮の香りが交じり少しベタついたこの風が、僕は嫌いじゃなかった。 煙の匂いと雑踏に囲まれるロンドンとは異なる、ライの落ち着いた空気が好きだ。 僕はこの街に来たとき、かつての栄華が見る影もない、哀れな街だと、自身の境遇に重ねていたところがあった。 しかし今となっては別の意味で自身と重ねている。 この街も、僕と同じように運命に抗う力を蓄えている。 きっとこの街も、いつかは新たな道を見つけ発展していくのだろう。 吐き出した息が風にさらわれていくのを感じながら、再び思考を深く、意識の中に沈める。 叔父上を殺したくないというこれについては、拭いきれない僕の弱さだった。 僕は過去の幸せに縋っていたんだ。 叔父上が陽だまりのような笑顔で笑い、父上がそれを柔らかく受け止め、母上が穏やかに微笑んでいる。 僕はその光景を再び見ることを諦めきれなかった。 だから、フラムとエイダにはオークションで迷惑をかけたな。 僕は不気味な絵だとか、気味の悪い石像とか、そういったものが全てを壊したのだと思った。 あれさえ壊してしまえば、僕がかつて持っていた日常が全て元に戻ると錯覚してしまった。 失ったものはそう簡単には戻らない。 そんな当然のことが、わからなくなっていたんだ。 落ち着いて、今取るべき行動を考え直すよう促してくれたエイダには感謝している。 アシュレイが叔父を憎んでも、レイが叔父を信じたいと思っていた。 2つの思いに挟まれ、僕は限界だったのかもしれない。 宿で見た夢によって不安定になっていた僕の信念は、フラムとの作戦会議や誓いによって安定を取り戻していたはずだが、あれはそれを超える恐怖を起こさせるほどの悍ましい像だった。 もしフラムとエイダがいなければ、僕はまともでいられただろうか。 僕は叔父上を殺していただろうか。 いや、もし、などという話はどうでもいいな。 フラムとエイダの前で、あの場にいたレイは、アシュレイは殺さないことを選択した。 それは今の僕から見ても最善の選択だ。 後悔はない。 意識を現実に戻すと再び時間が進み、月は真上に上っていた。 雲ひとつない星空を見上げ、短い息を一つ吐く。 「そろそろ、描くか。」 筆を手に取り、青い絵の具を白いキャンバスにのせる。 何を描くでもなく、思うままに広げていく。 絵の完成形は僕にもわからない。 だが、何かを表現できればそれでいい。 青と、黄色と赤と、紫。 島で見かけたときからずっと使いたいと思っていた色が、ライの街で再び見つかった。 それがどれほど嬉しかったか。 僕もそんな自分に驚いたものだ。 それから、ロンドンで少し寄り道をした際に買った茶色と水色も使ってみよう。 これが僕たちの未来を描いているのなら、どのような絵になるのだろうか。 東から登り始めた日に目を細め、椅子から立ってすっかり固くなった身体をほぐす。 「さすがに疲れたな。今日は一日中寝ることになるだろうが、まあいいか」 そんな風に日々を費やしては過去の僕に自堕落だと叱られるかもしれないが、昨日と今日の二日くらい許してくれ。 僕の体力はとっくに限界を迎え、今にも倒れそうなほどの眠気を感じる。 部屋まで保つだろうか。 画材を片付け、イーゼルとキャンバスを置いたまま家へと戻る。 リビングには既にマークが起きていたようで、朝帰りかと笑われたが言葉を返す気力も尽き、無言で茶色の絵の具を押し付けた。 そのままリビングのソファーに倒れ込むと、慌てたマークのエイダを呼ぶ声が聞こえた気がするが、僕はもう限界だ。 絵はいつか完成するだろう。 しかし明日描く絵は今日とは異なり、明後日に描く絵もまた異なる。 未来など、前もってその場で描くことはできない。 だから日々更新していくんだ。 今描きたい未来を、しっかり掴めるように。
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