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また今日も、息吹が人を殺してきた。
当たり前だ。
聖奈の住むこの国は、隣国との戦争の渦中にあるのだから。
けれど、息吹が敵国の兵士とその家族の未来を奪ったという事実が、聖奈には耐えられない。
息吹が犯した罪の罰を、聖奈は自分が引き受ける覚悟でいた。
夜の暗黒が支配する室内で、誰にも見られることのない涙を頬に落としながら、聖奈はいつものようにナイフを自分の左腕に突き立てた。
そうして肌に朱色のラインを引きながら十字架の傷を刻む。
左腕は、もう新しい傷を刻む場所がないくらい、大小の傷で埋め尽くされていた。
こんなちっぽけな行為で贖罪を果たせるなどとは、思っていないけれど。
月明かりがナイフと、鮮血を妖しく照らし出し輝かせた。
聖奈の父は、大学教授としての表の顔と、倫理的に問題のある実験施設の所長という裏の顔があった。
人間には、善悪や道徳、倫理観や感情が先天的に備わっているのか。
それともそれらは、後天的に教わらなければ身につかないものなのか。
それを研究するため、父ら研究者たちは、生まれて間もない乳児を集め、食事や排泄の世話以外のコミュニケーションを一切とらずに育てた。
その結果、子どもは全員、生まれて初めての誕生日を迎えることはなかった。
やがて実験データを集めるうちに、子どもを生かす方法が確立されていった。
生存する子どもが増え、五歳になると、対面での言葉の教育が始まった。 もちろん、研究データを得るためである。
実験が軌道に乗り出したころ、全世界を巻き込む戦争が勃発した。
戦いが激化する一方、心や身体に傷を負って帰還する兵士が増えた。中には再起不能な者も多数いた。
戦況が劣勢に立たされたある時、政府は父の実験の存在を知り、施設に収容されている子どもたちを兵士として差し出すよう迫ったのだ。
善悪の区別もつかない子どもたちなら、罪悪感に駆られたり、感情に左右されないため、人殺しに躊躇がない。
言葉を覚えた十歳以上の子どもたちは、 簡単な軍事訓練を受けたあと、政府によって『無感情兵士』と名付けられ、次々と戦場に投入され、貴重な戦力となった。
その日も聖奈は、息を殺して外で散発的に響く銃声や砲撃の轟音に耳を塞いで震えていた。
地上戦が始まって、もう何日目だろう。
戦争が始まり、父の実験が軍事転用されてからというもの、多忙な父が帰ってくることは滅多になく、十三歳の聖奈は、通いの家政婦と会話する以外、誰とも会わずに屋敷に引きこもっていた。
命を狙われているからだ、自分も父も。
敵は、自分たちの脅威になり得る無感情兵士の実験施設とその研究者たちの命を狙っている。聖奈も例外ではない。
父が帰宅したのは、聖奈が孤独に耐えられなくなる寸前の、夜のことだった。
父が秋風とともに連れてきたのは一人の少年だった。
出迎えた聖奈は、少年を見るなりいった。
「・・・息吹・・・?」
聖奈が小さな声で呟くと、疲労の色を濃くした父が「そう」と笑顔を貼り付けた。
「一度見ただけなのに、やっぱり覚えていたんだね」
父は聖奈の反応を興味深そうに伺いながら、感心したように、いつも通りの穏やかな声で告げた。
聖奈は息吹を、頭から爪先までなぞるように見つめる。
特徴的な大きな黒い瞳。同じ黒くてつややかな髪。清潔なシャツに包まれた身体は華奢で、十五歳という年齢にしては幼く見える。その目は、ガラスのように空虚に聖奈を映していた。
身長こそ記憶の中の姿よりも伸び、聖奈を追い越しているけれど、忘れるはずもない、初恋の人だった。
聖奈が初めて息吹と出会ったのは、三歳のころ。
初めて父の実験施設に連れていってもらった時だった。
父に手を引かれた聖奈は、一人の男の子の前で足を止めた。目が合った、と思ったからだ。
しかし父は、そんなことはないと笑った。
広大な施設では、五畳ほどの小部屋が両脇に並び、透明な壁で仕切られた中に、性別も年齢もバラバラの子どもたちがいた。
「これはね、マジックミラーというんだ。こちらから彼らの姿は見えても、彼らからこちらを見ることはできないんだよ」
父にそういわれても、聖奈は大きな大きな黒い瞳の男の子から目を離すことはできない。
同じように、男の子も聖奈から、目を逸らそうとはしなかった。
「彼が気に入ったのかい?息吹というんだ。おまえより年上の五歳だよ」
発育が悪いせいか、息吹は聖奈よりずっと幼く見えた。
何かを訴えるでもなく、ただ静かに無機質にこちらを見つめ続ける息吹の瞳を、聖奈は一日たりとも忘れることはなかった。
その夜、聖奈は久々に父と息吹とともに暖かい食卓を囲んだ。
「これからは息吹がおまえを守ってくれる。
私がそばにいてやれれば一番いいのだがね」
「お父さまはお仕事でいそがしいのでしょう。仕方ないわ」
聖奈は虚勢を張るように、凛とした声でいった。
「あれから息吹も成長してね。言葉も喋れるようになったし、軍事訓練も少しばかり受けた。おまえを守る立派な騎士になったと思うが。私からのプレゼントだ。気に入ってくれたかな?」
「プレゼントだなんて・・・物みたいないい方は嫌だわ。彼らにも、きっと意志はあるのだろうし。息吹こそ、こんな私を守るなんて嫌じゃないかしら?」
すると、それまで置物のように口を閉ざしていた息吹がぽつりといった。
「俺は、敵から聖奈を守るようにと命じられている」
透き通った抑揚のない無感情な声だった。父が苦笑する。
「言語を教えた職員の言葉使いが乱暴でね。気に入らなければ好きなように直せばいい」
そんな、ロボットじゃないんだから、と聖奈はまた反論しそうになる。
しかし、何はともあれ、あの時の男の子と一緒に暮らせる、と思うだけで聖奈の頬は紅潮した。長らく感じていなかった高揚感だった。
それから、ほんのわずかだけ、聖奈は息吹と穏やかな日を過ごした。
聖奈は息吹と距離を縮めようと積極的に話しかけた。
「ねえ息吹、私たち一度施設で会っているの。覚えてない?」
「いいや」
分かりきった答えではあったのだが、やはり少し残念な気持ちになる。
しかし、聖奈はめげずに続ける。
「楽しい時はね、笑うの」
そういうと聖奈は、息吹の頬をむに~とつまみ、無理矢理笑顔のカタチを作った。
「悲しい時は泣くのよ。涙は自然に出てくるから」
お姉さんぶって、「いいこと」と「わるいこと」を息吹に教えた。
「好きとはどういうことか」を説き、「嫌なものは何か」という質問をしたりした。
「人を殺してはいけないの」と、いうことも重ねて伝えた。
その話を息吹は無表情のまま聞いていた。
迷惑がる様子も見せず、はしゃいで喋り続ける聖奈の話に、聖奈本人が話し疲れるまで付き合ってくれた。
理解したのかどうかは分からないが、聖奈にとってそんなことはどうでもよかった。
息吹と話すことが何より嬉しくて楽しかった。
これから少しずつ、息吹が持たない重要なものを、自分が教えてあげよう、聖奈はそう決意した。
しかし、世界は聖奈に優しくなかった。
息吹に、兵士として前線に赴くよう、通達がきたのだ。
『無感情兵士』として息吹が人を殺す。
良心の呵責や罪悪感など一切感じずに。
見知らぬ誰かの未来を奪う。
それが聖奈には、たまらず恐ろしく、受け入れ難いものだった。
息吹が命令に従い、人を殺して平気な顔をして帰るようになると、聖奈は自分の左腕に十字架を刻むという自傷行為に及ぶようになった。
息吹の犯した罪への罰は、彼を止められなかった自分が全て背負う、そう決めたからだ。
何より罪深いのは、未だ『無感情兵士』息吹の中にも善良な思考が眠っているはずだと信じている自分なのだ。
いつかきっと、それは目覚めてくれるはずと愚かにも信じ、戦場へ送り出している自分なのだ。
言葉として教えるだけでは駄目なのだ。
息吹が自発的に、戦うこと、人を害することを止めてくれる、そんな夢物語を、聖奈は捨て切れずにいた。
人は、生まれつき善き人なのだと。
善悪の区別はつくのだと。
息吹が何人殺そうと、聖奈は信じていた。
天罰が下ったのだ。
聖奈は焼け焦げた建物を前に立ち尽くしていた。
破壊された建物からはまだ、ところどころ煙が上がっている。
父の実験施設が敵側の空爆で炎上したのだ。
中には父がおり、死亡が確認された。
がくりと膝からくずおれて、聖奈は泣きじゃくった。
その肩にそっと、誰かが手を置いた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で振り向くと、無表情でこちらを見下ろす息吹がいた。
仮面のように無表情な息吹を見たとたん、聖奈の中にふつふつと煮えたぎる何かが爆発した。
肩から手を払いのけると、聖奈は叫んだ。
「お父さまが死んだのよ!どうして平気な顔ができるの!?悲しくないの!?」
少しだけ、困ったような顔になりながら、息吹はいった。
「教授は俺の父でもある。悲しいさ」
キッと息吹を睨むと、聖奈は彼の頬を平手打ちした。
「うわべだけの言葉なんていらない!」
そう言い捨てると、聖奈は泣きはらした顔を隠そうともせずに走り去った。
あの日以来、聖奈は息吹と口をきいていない。
それでも息吹は聖奈のいる家へと帰ってくる。
息吹がそれを、どう感じているのかは分からなかった。
ただ、変わらず人を殺しているのは確かなようだった。
月明かりだけの部屋。
いつものように光るナイフ。
己に十字の傷をつけようとしたところで、ふわりと何かが聖奈に覆い被さった。
「!?」
後ろから息吹に抱きしめられたのだ。
「もうやめろ、聖奈」
ぶっきらぼうな彼の声。
「おまえが自分を傷つけるのは、俺のせいなんだろう?」
「・・・知ってたの?」
聖奈が驚いて振り向くと息吹は続けていった。
「おまえが嫌なことは、もうやらない」
「・・・え?」
その口調は相変わらず、冷淡そのものだった。
「おまえが泣いていると、こう、うまく呼吸ができなくて苦しいんだ。もう、おまえが泣く姿を見たくない」
息吹の顔を見た聖奈は息を呑んだ。
探るように言葉を繋げる息吹の両目からこぼれる涙が、月の光りを受けて輝いた。
感情を知らない息吹の中に、聖奈が夢見た何かが、芽生えようとしていた。
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