第3話 彩って呼んで

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第3話 彩って呼んで

 チーズケーキというのは、大きく分けてベイクドチーズケーキ、レアチーズケーキ、スフレに分けられる。起源は古代ギリシャまで遡るらしいが、今のようなケーキになったのは中世ヨーロッパあたりになるらしい。更にベイクドチーズケーキにはしっとりとしたニューヨークタイプ、ホールの中心がへこんだ、ずっしりとしたオールドファッションタイプがある。マスターが丁寧に教えてくれた。 「ちなみに彩ちゃんの好きなチーズケーキは何なん?」 そういえばこの店にはチーズケーキしかないとはいえ、チーズケーキの種類は多いんだろうか。彩はレアチーズケーキが大好きである。 「あちゃあ」 レアチーズケーキが好きだと伝えると、マスターは額を右手で叩き、天を仰いだ。どうやら違う種類しか無いのであろう。聞くと、ベイクドチーズケーキしかないとのことだった。 「ほなマル、用意してあげてな」 累は頷き、準備をしに裏へ回る。 「じゃー出てくるまで彩ちゃんはコーヒー選びに行こか」 マスターに連れられて累が指し示した壁際にいくと、仕組みが理解できた。壁には20種類くらいのカプセルが並んでおり、一番下のカプセルを取ると、上に積み上がっているカプセルがスライドしてくる。カプセルの下には種類が書いてあり、ブレンド、モカ、コロンビア、カフェラテなどのオーソドックスなものから、キャラメルマキアート、抹茶ラテ、チョコラテなど変わったものまである。見ているだけで楽しめる。 壁の左端にはコーヒーカップ、エスプレッソカップの棚があり、腰より少し上くらいの高さのマガジンラックと繋がっている。どうやらカウンターの中にあるコーヒーカップはインテリアなのだろう。マガジンラックの上にはサーバーが置いてあり、カップとカプセルをセットしてボタンを押せば出来上がりというわけだ。ベイクドチーズケーキに合うとなると、甘くない方がいいかと思い、モカブレンドを選んだ。 「お、彩ちゃん渋いな」 選んだカプセルをみてマスターは言う。確かに女子高生らしさがなかったと彩は後悔した。  席に戻ると、丁度ケーキの準備を終えた累が戻ってきた。どうぞと言って差し出されたスクエアタイプのお皿の上には、断面が白く、上表面が茶色い焼き色のついたチーズケーキとその横にたっぷりのホイップクリームが添えられており、ココアパウダーがかかっている。ケーキの土台はクッキー生地のようだ。 「これ、マスターが作られてるんですか?」 看板の文字とは不釣り合いな美味しそうなケーキに、ふと気になったことを彩は質問する。 「ワシは料理なーんもできひんよ」 と言ってマスターは手の平を上にして累に向ける。 「え、じゃあこれは狭間君が作ってるの?」 累は恥ずかしそうにそうですと答える。凄い。純粋にそう思える見た目だ。いただきますと言い、チーズケーキの尖ったところをフォークで切り取り、まずはホイップクリームを付けずに食べてみる。 「美味しい...」 思わず思った事が言葉になる。 「こんな美味しいチーズケーキ食べたことない。これでコーヒー付いて499円なの?」 累はほっとした様子だ。ようやく緊張が解けてきたのか、彩の問いに答えてくれる。 「このお店はマスターの道楽みたいなものなんですよ。なので利益は求めてないんです。北海道でクリームチーズを製造されているマスターの知人から安く分けてもらってます。砂糖は使ってなくて、替わりにラカントという甘味料を使ってるので、一般的なチーズケーキよりもカロリーはありません。隠し味はヨーグルトです」 美味しいだけでなくカロリーオフとは素晴らしい。隠し味を隠さない辺り、本当に道楽でやってるんだろうか。 「狭間君チーズケーキ屋さん開けるよ。いや、開きなよ。このチーズケーキすごく美味しいよ」 累は真っ赤になっている。 「ちょい彩ちゃん、それ営業妨害やで」 マスターが口を挟む。 「そうでした。それにしも、道楽でやってるって、マスターは一体何者なんですか」 マスターは自分はただのオッサンだと言うが、累が説明する。 「この人は竹内卓也といって家が代々の地主で自らもいろいろな事業をやってるみたいです。詳細は知りませんが、まぁお金持ちであることは確かみたいです。それで、カフェの雰囲気で週末は過ごしたいということで、余ってるお金をこうやって無駄に遣ってるんです」 チーズケーキといい、大富豪といい、人は見かけにはよらないのだとつくづく思う。 「こらマル、もうちょっとましな説明があるやろ」 累は両手の平を上に向けて首を横に振っている。 「ところでマスター。さっきから狭間君をマルって呼んでますけど、何でマルなんですか?」 だいぶ疑問に思っていたところだった。 「聞く?彩ちゃんそれ聞いちゃう?」 マスターは凄く嬉しそうだ。 「ワシの婆ちゃんがこいつの親父さんに世話になったことがあってな。ワシとこいつは古くからの知り合いやねん。今ではスラッとしてるがな、こいつのちっさい頃はそれはそれは丸々と太っとってな、狭間のマと累のルでマルになるし、それでマルになったっちゅうわけや。その頃の写真見る?」 見たいと言う間もなく、マスターはスマホを操作している。見せてもらった写真には、面影がある若いマスターの姿と、誰だか分からない丸々とした子供が写っている。 「これが昔の狭間君...全然分からないですね」 こうなったマスターは止められないのであろう。累はやれやれという感じでため息をついている。咲か紗香が同じ小中学校かもしれない。今度聞いてみよう。 「僕をマルと呼ぶのはマスターだけです」 それはそうだろうと思った。 「じゃあ、これも何かの縁だし、私もマルって呼んでもいい?」 累は世界が崩壊していくような顔をしているが、マスターが快諾してくれた。マルはマスターに文句を言っているが、呼ぶからねという私の一言で渋々了解してくれた。 「ところで彩ちゃん、どうしてこの店に来たん?」 客に対してはぶっきらぼうなマスターの質問に彩は答える。 「けやき通りに居た黒猫に誘われてきたんですよ」 頭がおかしいと思われそうな回答であったが、彩は正直に答えた。マスターとマルは一瞬目が合う。 「あぁ、ノワールか。あいつは偉い猫やで。よう客を連れて来よる」 やっぱり名前はノワールだったのか。聞けば、彩と同じようにノワールに連れられてカフェに入ってきたお客さんが他にも多いらしい。ノワールという名前は自然に呼ぶようになったそうだ。不思議なこともあるのだと、ノワールの姿を思い返していた。気がつけば、もうチーズケーキはあと一口を残すのみとなっていた。最後の一口を惜しみながら堪能した彩が時計を見ると、十八時半を回っていた。 「ご馳走さまでした。マスター、マル、私この店が気に入りました。また来ますね。今度は友達と一緒に」 マスターは感激しているが、マルは面倒が増えそうだという顔をしている。彩は財布に入っていた500円硬貨をマルに渡す。 「チーズケーキは500円にしないの?」 素朴な疑問を聞いてみる。 「499円だと、ぴったりの小銭を持っている人はなかなか居ないでしょう?まぁたまに居ますが、ぴったりのお金を置いて帰られるのは何だか切ないってマスターが言うんですよ。ウチはレシートとか無いですし。なので、こうやってちゃんとお返しをするためです」 差し出されたおつりを受け取ろうと差し出した彩の手の下にマルが手を添え、1円硬貨を受けとる。一瞬彩は胸がドクンと鳴り、血が上ってくるのを感じる。 「神宮寺さん、ちょっと前に。肩に埃が付いてますよ」 と言って少し前のめりになった彩の肩をマルが手で何かを払う。彩はこの時、不思議な力のようなものを感じた。この人は今埃を払ったんじゃない。別の何かを払ったのだ。そう確信した。しかし、ここでいろいろと詮索するのは止めた。 「ありがとう。ねぇマル、私のことは彩って呼んで欲しいの。私、神宮寺って呼ばれるのあまり好きじゃないんだ」 マルは無理だという顔をしている。マスターはもうちょっと居てよと寂しがっているが、また来ますと言って彩は店を出る。 「累、やばそうなんか?」 ウインドチャイムが鳴り終わると、マスターはマルに真顔で聞く。 「あまり良くはないかも」 「そうか。なら今日はもう店閉めよか」
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