1人が本棚に入れています
本棚に追加
序章 始まりの夢
彼女を見つけた場所は、誰もいない図書館だった。半分開いた窓から、ふわっと風が入りこむ。揺れるカーテンの隙間に彼女はひとり佇んでいて、僕に気がついた瞬間、ハッとしたように顔をあげた。その目が驚きに見開かれる。誰かが訪れるのは、初めてだったのかもしれない。それくらい、人の気配がまったくしない空間だった。
「こんにちは」
気づけば、そう言っていた。
本当は、そんな言葉を口にしなくてもよかったはずだ。我ながらまぬけな挨拶だった。黙殺されるかと思ったけど、彼女は僕を認めると、ペコッと軽く会釈した。年は少し下だろうか。濃紺色のスカート、赤いリボンがついた長袖のセーラー服。高校生か、もしかしたら中学生かもしれないと思った。
僕は、どうしてこんなところにいるんだろう。考えても思いだせなかった。図書館なんて、よっぽどの用事がない限り、足を踏み入れないはずだ。僕は、みずから本を読もうとしたことが一度もない。小説とは無縁だった。ただでさえつかみきれない言葉を用いた文章を、読むことなんてできなかった。物語にでてくる主人公の気持ちなんてまったく興味がなかったし、知りたいとも思わなかった。それなのに、ここに来ていたのだ。たくさんの本で満たされた、彼女しかいない図書館に。
「どうやって来たの?」
彼女は僕にむかって、不思議そうに問いかける。どうやって? 質問の意味が分からなくて、とっさに答えが浮かばない。変な質問だな、と思った矢先に彼女は言った。
「ここは、私の夢のなかなのに」
夢のなか? 頭が混乱する。と同時に(そうか、これは夢なのか)と納得する自分もいた。現実で僕が自主的に、図書館に行くはずがない。たまに夢のなかで、「これは夢だ」と妙に自覚することがあるけれど、今もそうなのかもしれない。僕は途端に楽になった。もしこれが夢ならば、何も繕わなくていい。
「そんなの、分からないよ」
そう口にした僕を、彼女はまた注視する。僕の顔に答えが記されているとでもいうように。
「でも、来てくれてよかった。ひとりで退屈していたの」
思わず、僕は笑ってしまう。ずいぶん奇妙な夢だな、と思った。彼女にとって僕は「彼女がみている夢」に現れた登場人物なのだ。僕は、(もしかしたら、それは本当かもしれない)と思った。僕の――独創性のかけらもない脳みそが、こんな台詞を言う女の子をつくりだせるはずがない。
「本読んでたの?」
彼女の手元に視線を移す。
青色の文庫本を、彼女は手に持っていた。
「うん、銀河鉄道の夜」
詩を暗唱するように、彼女はゆっくりそう言った。
「知ってるでしょう?」
「銀河鉄道スリーナインなら」
「それは違う漫画だよ」
彼女はおかしそうに笑う。
「宮沢賢治を知らないの?」
「小説は全然読まないんだ。文章を読むのが苦手でね」
僕は白状するように、彼女にそう打ちあけた。
「この場所だったら、読めるかも」
「どうして?」
「私の夢のなかだから」
「なるほど」
「今度、読んであげるね」
彼女はそう言って微笑んだ。まるで心の底を照らすような微笑だった。ふいに目を奪われる。彼女が本当に心からそう言ったのが伝わって、(僕は、初めてその本を読んでみたいと思った)その風景は揺れ動き、だんだん遠ざかっていって――僕はゆっくりとまぶたを開ける。一人暮らしをしている部屋の白い天井が、ぼんやり目に映りこんだ。
普段は夢をみても目覚めたら忘れてしまうのに、彼女の表情や佇まいは、やけに鮮明に覚えていた。
(しょせん、夢だ)
僕は思う。僕の願望が投影した幻想をみていたのだろう。しかしよりによって、図書館で女の子と話す夢なんてどうかしている。
『ここは、私の夢のなかなのに』
心底不思議そうに告げた、彼女の言葉も覚えていた。でも、いずれ忘れるだろう。他の夢と同じように。日々が経過するにつれ、記憶から消されていくだろうと。
でも、そうはならなかった。僕はその日から――毎日、彼女を夢でみることになる。
最初のコメントを投稿しよう!