第一話  架空のi(アイ)

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第一話  架空のi(アイ)

 大学一年生の春。  家庭教師のアルバイトを始めたのは、高校で習った数学にもう一度触れてみたかったからだ。文字を読むのが苦手な僕は、さかのぼれば小学生のときから、国語は壊滅的だった。その分、理路整然としていて、数式さえ用いれば必ず解にたどりつける数学の方が好きだった。毎日生きる理由を見出せない思春期を過ごした僕にとって、数学の完全性はとても魅力的だった。そこには一辺の迷いも屈託も遠く及ばない。最終的にひとつしかない正解を求めるだけでいい。その土台となる定理は、永遠に真実でしかない。僕にとって人生は、「何が正解か分からない」と思うことの連続だった。  生きていて、すべての不安要素を取り除くことなんてできない。そんな鬱屈をもて余すさなか、数学の問題を解いていると、「この世界に確固たる真理はある」と思わせてくれた。それは、存在理由さえ希薄になりがちな僕にとって、手の届かない憧れだった。数字自体にも惹かれていた。他の数で割りきれない素数の完璧な孤高さや、約数の合計がその数自身と同じになる完全数。完全数が、常に連続する自然数で表せると知ったときは驚いた。 6=(1+2+3)という具合に。  数字の見た目の簡潔さと、美しさも好きだった。それは、ずっと抱えているやり場のない憂鬱をいつも取り払ってくれる。僕は、他者と感情を共有するのが苦手だった。小説の登場人物に共感したことがないように、僕は幼い頃から、(友達や家族に囲まれながら)言い表せない孤絶感をずっと胸に感じていた。高校のときは剣道部で、同じ部活の先輩と一年間だけ付きあった。フラれた理由は今でも、あまりよく分からない。 「直哉(なおや)って私のこと、ホントはあまり好きじゃないでしょ」  高校を卒業する日、僕はそう言われたのだ。彼女(カスミという名前だった)にそう言われたとき、すぐに答えられなかった。 ――そんなことないよ。  そんなふうに言えたらよかったのだけど。僕は自分でもあっさりと(そうかもしれない)と思ったのだ。手も繋いだし、キスもしたし、セックスもしたし、デートもした。僕たちは傍から見れば「どこも過不足のない高校生カップル」だった。僕の飽くなき性欲も、彼女はちゃんと満たしてくれた。女の子は想像よりもずっと柔らかくて、いつも甘い匂いがした。その身体に触れられるだけで、僕は単純に興奮した。     その劣情と純粋な好意の違いなんて分からなかった。実際、そんなに深刻に考える必要なんてなかったのだ。僕は彼女の疑念を、ただ否定するだけでよかった。それなのに、一瞬できた会話の間であっさりと真意を見抜かれてしまった。その空白が命取りだった。カスミは、心底かなしそうな視線を僕にむけて、「さよなら」を告げた。本当は頬のひとつやふたつ、ひっぱたきたかっただろう。
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