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アルバイトは十七時からだった。十七時から十八時の一時間。
いつもは週一ペースだけれど、「中間テスト前だから」という理由で、今はコマ数が多かった。僕にとってはありがたいことだ。ひとり暮らしのアパートから自転車で三十分くらい行ったところに真新しい家があって、僕はいつものように壁のインターホンを押す。
「先生、いらっしゃい」
四十代くらいの母親が、会釈してドアを開けてくれた。一介の家庭教師でしかないのに、「先生」と呼ばれるのは気恥ずかしいことだった。と同時に、少なくともそう呼ばれるだけの仕事をしなければ、とも思う。
「お邪魔します」
そう言って階段を昇った先にあるのが、「高野千春」の部屋だった。市内の高校に通う十六歳。やや童顔で身長が平均より低い千春は、実年齢より幼く見える。
「あ、先生やっときたー」
この子も母親と同様、僕のことを「先生」と呼ぶ。この子にそう呼ばれると、「家庭教師」という役割もなかなか悪くないな、と思う。大学の専攻は経済だけど、高校の数学教師になってもいいかもしれない、なんて一時だけ考える。日常的に女子高生と触れ合える、という動機は不純極まりないものだけど、そうでもなければこの先、現役の女子高生と話す機会はないだろう。そこまで考えて、思考を打ち消す。教鞭をとる想像は、砂上の城のごとく崩れる。
「宿題始めてみたんだけど、ひとりじゃ全然進まないよー」
甘えたようにそう言うと椅子をクルッと回して、千春は僕にむき直る。問題は因数分解だった。
問い A=x²+2ax+2, B=a²−3ax+1のとき、次の計算をせよ。
① 3A+2B
② A−{2B+3(A−2B)}
数字をあてはめるだけで答えられる問題だ。千春は数学が苦手だけれど、このレベルの問題が解けないなんてはずはない。ということは、単にやる気が出ないだけなのだろう。その証拠に、僕が隣に腰かけると、それを待っていたかのようにノートにシャーペンを走らせた。
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