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千春は文系だけど、平均点が取れる程度の学力は必要になるはずだ。基本的な公式を抑えておけば、テストも問題ないだろう。千春が問題を解いているあいだ、僕は机の上にある数Ⅰの教科書をパラパラとめくる。そのなかから中間に出そうな問題――簡単なものと応用をいくつかピックアップして、あとで解いてもらおうと決める。
「先生はなんで数学が好きなの?」
設問を一通り解きおえると、千春はそんなことを聞いた。
「正解が決まっているからかな」
あたりさわりなく、僕は応える。
正解のない問いは存在しない。数学にはいつも求めるべき値があって、曖昧さは排除される。すべての感情を表す言葉がこの世界にないとしても、すべての問いには答えがあり、たどるべき道も決まっている。少々迂回するコースと、最短距離の違いくらいだ。なるべく早く解くために決められた公式があり、多くの数学者によって証明された定理がある。
「虚数という概念があってね」
雑談のついでに僕は、そんな話を始めてしまう。
「虚数はありていに言えば、数学の完全性を保持するための言葉なんだ。昔のギリシャの人々は、1の平方根√1を発見したとき、−1の平方根√−1はどうなるだろうと考えた。+1や−1を答えにすると、平方したらどちらも+1になってしまう。でも、この二つ以外に候補はない。そこでボンベリという人が、虚数、iをつくったんだよ」
想像上に存在する、アイ。
千春は思いのほか、話を真剣に聞いている。こういう雑談の方が、元来文系の彼女には面白いのかもしれなかった。そして、そのiは、この世界で一番美しいとされる『愛』という言葉に繋がっている。否、どうしても繋がってしまう。それは似ていると思うから。表す音も一緒だし、それがなければ成り立たない(と固く信じられている)、ヒトの構造を思わせるから。
実際は「完全なもの」なんて、この世界にはないのかもしれない。完璧な愛情がないように、完全に誰かを理解して、愛するなんて不可能だ。でも、iはいともたやすく、その矛盾を隠してしまう。その概念さえあれば、世界の調和は保たれる。真実なんてないのだとしても、ちゃんと解にたどりつける。
その事実に安心するのだ。イメージ上のiが、今も存在することが。きっと僕は本当に、誰かを愛したことはないから。そんな自分をごまかしたまま、許容するすべも分からないから。
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