第一話  架空のi(アイ)

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(読み書きも満足にできない自分が、果たして大学に入れるのか)  高校のときは、その恐れがいつも胸に巣くっていた。なんとか合格できたことで、ギリギリまで張りつめた糸が切れてしまったようだった。一人暮らしを始め、完全な自由を手に入れたことも弛緩した理由のひとつだった。自分を律することの難しさも感じていた。 《ディスレクシア》という現実は、「普通に装って」過ごすには、あまりにも大きなハンデだった。そして僕の心の底には、影のような無力感が消えることなく根づいていた。 そんなとき、この世界に自分の居場所はひとつもないような錯覚にとらわれた。僕のなかには「個性」と呼ぶには大きすぎる欠陥があって、それを知らせない限り、誰かと分かりあうことはできない。十代の初めから形成された巨大な自己不信は、終わりのない闇になって僕を包みこんでいた。  人は「言葉を介して」分かりあおうとするものだ。でも、僕にとって「言葉」は、簡単には読みとれない歪な符号でしかなかった。自分を愛せない僕は、「他者に嫌われないように」するので精一杯だった。カスミとは部活で会えたし、高校生だったから、デートといっても近くのショッピングモールを冷やかすくらいで事足りた。でも、この先は? レストランに入っても、僕は記載されたメニューを素早く読むことなんてできない。ホテルに泊まってチェックインを済ませようと思っても、決められた枠からはみださず、名前や住所を正確に、書く自信さえもないのだ。 「何かを書かなければいけない」状況は、僕には無理だった。「メモをとれ」と言われても、想像以上の時間がかかった挙句、視覚的に覚えることが苦手なために忘れてしまう。面接で好印象をもたれていた分、「怠けている」とレッテルを貼られ、前のバイト先(コンビニ)では、散々な思いを味わった。聞いて覚えるには限界があり、多様な仕事内容を把握できなかったのだ。最後には、「やる気がないなら来なくてもいい」とまで言われる始末で、その日に僕はバイトを辞めた。
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