曇天の記憶

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曇天の記憶

 彼女は薄寒さを感じて目が覚めた。まだぼんやりとした頭を窓の外に向けると昨日の深夜から降り続いていた雨はまだ止んでいないようだ。トタン屋根を雨音が叩き、その音の波は空気を伝って伝わり、どこかに弾かれて消えていく。そのまましばらく波及しては消えを繰り返す雨音に身を任せた後、彼女の意識は完全に覚醒した。そんな彼女が最初にしたことは目を覚ましたことを恨むことだった。  彼女は夢の中では陽だまりの中にいた。アネモネの咲く東屋で誰か、大切であったはずの誰かと一緒にいる夢。その夢は部分的な記憶を失った彼女が覚えている数少ない、そして最も尊い陽だまりの記憶の投影だった。そしてその記憶はもう、彼女の夢の中でしか形にならないのだ。  義両親との会話のない朝食を済ませ、灰色のシャツを着てジーンズをはく。洗面所の鏡に映った彼女はまるで親を求める雛鳥のようだ。形のない何かを求めて暗い巣の中で醜く泣きわめている姿が心に影を落とす。  彼女は幼いころに両親を亡くし、現在の義両親に引き取られた。そのため物心ついたころから、彼女は愛なき生活を送っている。もともと地元の区議会議員だった義父が一種のパフォーマンスのために彼女を引き取ったのだ、と聞いたのは高校に入学してからだ。引き取られた後、彼女は義両親から半ば放置されており、彼らが彼女に「頑張ってね」や「愛してる」といった言葉をかけたことは一度としてない。彼女はおやすみのキスをする父親の表情や声音、「遅刻するわよ」と毎日せかしてくる母親の手の温かさや湯気の立つ朝ごはんの匂いを知らない。こんな家で育ったから、彼女が誰かからの愛に飢えるのは当然のことだ。運動会で褒められながら両親がよりをかけて作ったお弁当を食べている子を見ると胸がズキズキと痛んだのを覚えている。  それでも、彼女は義両親には感謝していた。小学校、中学校、高校の学費や大学受験に必要な塾の料金や受験料、入学金に授業料は出してくれたし、部屋だってあてがってくれた。彼女が事故にあった時もいろいろサポートしてくれたらしい。だから、彼女が今している仕事も、義両親から受けた恩を返すという目的があった。 「いってきます」と言うだけ言って古ぼけたモカシンを履いて、錆びついて嫌な音のする玄関の引き戸を開けた。外の雨は朝より弱くなっている。彼女は傘を差し、片手で器用にスマホのカレンダーを起動する。今日の日付の欄には『10:00 駅前の喫茶店』と表示されていた。ぐしゃぐしゃとモカシンが水溜りを弾く。  人は特別な能力を持つ者を羨み、時に彼らを英雄と呼ぶ。だが、果たして英雄は自分の為すことをどう思っているのだろうか。映画のスクリーンの中で活躍するヒーローたちは本当に自分の意志で立ちはだかる巨悪に立ち向かっているのだろうか? 「力ある者にはそれ相応の責任が伴う」とは至言であると同時に、ある者に対しては残酷な言葉だ。彼女はそのある者の一人だった。彼女には彼女にしか持っていない能力があるとはいえ、これを使う前の心ははいつも、曇天の中降る雨のようだ。  彼女が待ち合わせ場所に着くと10分前にもかかわらず、もう依頼人が来ていた。黒いスーツをしっかりと着こなしているいかにも真面目な会社員といういでたちだ。一見、彼女の依頼人のなるには少し善良すぎるような気もする。依頼人の男性は、近くを通ったウェイトレスに彼女の分のコーヒーを自分のお替りの分のコーヒーを頼んだ。 「いやー来てもらって悪いねえ。どうだい、いい店だろここ?」  依頼人の男が一気に心理的な距離を詰めてくる。人が赤の他人とコミュニケーションをとるために最適な距離は1.2メートルから3.6メートルとされているがこの男はそうではないようだった。テーブルの半分ぐらいまで身を乗り出し彼女に話しかけてくる。不快感を感じた彼女は早く終わらせてしまおうと身を離してから話を進めることにした。 「実は君に依頼があってね。いいんだろ、何かあったら君に頼んで」 「はい。それでご用件というのは……?」  彼女はあくまで事務的な口調を心掛けた。 「実は、そのー言い出しにくいんだけど」  男は声を潜めながら、さらに彼女に顔を近づけてくる。コーヒーの匂いとたばこの匂い交じりの吐息が彼女にかかる。 「その、じつは不倫相手がいてねー。今の妻と別れて自分と結婚しようと迫ってきているんだよ。さすがにそれはまずいんだけど僕が何を言っても聞かないし……。でも妻にばれるのはもっとまずいし」 「なるほど、それで私に奥さんのふりをして、不倫相手の方にあなたのことをあきらめてほしいと言えと、そういうわけですね」  男に最初に感じた善良な印象は吹き飛び、彼女の目には、目の前の男が自分のことしか考えない利己的な屑に映っている。なんでこんな男の依頼を引き受けたのだろうと後悔しかけたが、お金をもらっている以上その分の働きはせねばならなかった。  だが、彼女には一つ気になることがあった。それはわざわざ彼女に頼まなくても知り合いか誰かに頼めばいいだけの話ではないか、という点だ。 「いや、その不倫相手っていうのが、妻と面識がある人で……」 「なるほど、それで……」 「そゆこと。どうかな頼める?」  男の粘っこい視線が心底気持ち悪い。彼女の心は取り繕われた表情とは裏腹に早くこの地獄の牢獄のような空間から外に飛び出したがっていた。稀にこういう人間がいることは重々承知していたが、やはり慣れるものではない。いや、なれてはいけないのだろう。 「はい。それでは頼んでおいた奥様のプロフィールと顔写真、それから部屋の写真を拝見させてください」 「うん。え、確か妻の出身地とか好きなもの、経歴と家庭環境と両親の僕から見た性格でいいんだよね」  男はそう言いながら、カバンの中からクリアファイルを出す。男の妻のプロフィールはそこそこ詳しく書かれており、これなら彼女が能力を使うには申し分ない情報量だろう。 「結構です」  彼女はプロフィールと部屋の写真に目を通す。視覚からの情報を受け取った脳が活動をはじめ、膨大な情報が処理されていくのがわかる。彼女の中で男の妻という女性の人格が一つ一つプロファイリングされていく。気が強い、喜怒哀楽が激しい、人に弱みを見せたがらない、などの人の性格の一部分一部分が頭の中で次々に作られていき、彼女の中にもう一つ、男の妻という人格ができ始める。 「奥様の人格、把握しました。もう憑依可能です」 「わかった。もう相手が来ると思う。よろしく頼むよ」  彼女は最後の仕上げに男の妻だという写真を見る。化粧気のない、つんと澄ましたような美人で、弓のように細い眼がすべてを射抜いてしまいそうなほど鋭くカメラのレンズを見据えている。  彼女は男の妻の顔を脳内で構成し、瞑想状態に入った。瞬間、彼女は顔に氷を押し付けられたような冷たさに襲われ、次第にそれは電流が顔全体を走っているような痺れに変わっていく。その痺れは喉にまで伝わり、自分が自分でなくなっているのが明確にわかった。彼女の人格の奥底をだんだんと黒い靄が包んでいく。そして彼女の意識は、顔の痺れがなくなったと同時に途切れた。  彼女のその能力は、彼女が大学3年生の時に発現した。彼女は学校の帰り道、信号無視のトラックにはねれられてしまい意識不明の重症にまで陥ってしまったのだ。幸い、3日ほどで意識が覚醒し、今までの部分的な記憶を失ったが、生活に支障をきたすような後遺症は残らなかった。義両親は病院まで来て彼女の無事を確認すると「無事ならよかった」と感情の見えない声を彼女にかけ、それからは服を持ってきたり、事務的な用事以外では彼女に会いに来ることはなかった。彼女は義両親のその態度には慣れていたが、やはり義両親が来てくれないという事実は彼女の胸の奥深くをえぐった。  それに事故にあってからというもののとてつもない喪失感を彼女が襲い続けているのだ。絶対に忘れたくなかったものを、忘却の彼方に置いてきてしまったようなそんな感覚を彼女は毎日覚えている。今ではその失った記憶を夢の中でたまに見るが思い出すには至っていない。  だが、医者から告げられたことは丸一週間、彼女が憂いていたことを忘れるほどに衝撃的なものだった。 「えーとはっきり申し上げてしまうと、今のあなたは顔の表情筋、声帯筋が常人のなん百倍も発達している状態となっています」 「つまり、どういうことですか?」 「あなたは今、誰にでも化けられる状態ということです」 「……え?」  医者はわかりやすく説明することに手間取っているようだった。慎重に言葉を選びながら話しているのが、眉間に寄せられたしわでわかる。 「まあ、原因は不明ですが、稀にあるのです。事故などの強い刺激によってこのような特別な能力を持つ人が。私も今までに2人ほど見てきました。ただ通常は超記憶だったり、身体能力の異常発達だったりするわけなのであなたはかなり特殊な部類に入ります。まあだんだんそのような能力を持つ人の存在はテレビなどの特集を通じて徐々に世間に知られており、別にあなたを差別するという人もまあ少ないでしょう。あ、ちなみにどんな顔や声に化けれるとはいっても流石に肌の色や声質の著しい乖離などはどうしようもないので化粧やボイスチェンジャーが必要でしょう。それに今のあなたは、ああこれは精神科医の話ですが、もう一つ、透明な人格があるそうなのです。そこに脳からの情報を注ぎ込むだけでその情報元の人物の人格を作れるようになるのです。これは生まれつきですね。まあこの能力をどう活かすかはあなたに任せます。封印するでもいいし役立ててもいい。ただ、犯罪にだけは加担しないでください。今のあなたのその能力は公安に警戒されかねないものですので」  彼女は心臓の鼓動が、耳元で聞こえた気がした。鋭い耳鳴りと共に目の前の世界が色を持ち始め、白く光った瞬間、彼女の意識は喫茶店へと舞い戻ってきた。同時に彼女の中に作られたもう一つの、男の妻という人格が消え失せ若干の喪失感を覚える。  男を見ると満足気にニコニコ笑っている。 「いやーありがとう。やっぱり便利だね、その能力。羨ましいよ」  男はそう言って、お金の入った封筒を机に置いて、そそくさと出ていった。お前はもう、用済みだと言わんばかりに。  彼女はため息をついて、周りの好奇の視線から逃れるようにコーヒーカップを手に持つ。いつものことだ。いつものことなのだと彼女は自分に言い聞かせる。彼らが見ているのは彼女の能力と彼女が化ける対象であって彼女そのものではない。言ってしまえばスマートフォンやテレビのようなものと同等にしか見ていない。そうだ、いつもそうではないか。  そう言い聞かせながら飲むコーヒーは、ひどく酸っぱい味がした。  次の日。彼女の依頼人が指定した場所は、都内最大級の公園、その噴水前のベンチだった。昨日の曇天が嘘のように空はパレットの上の水色のように綺麗に晴れている。  彼女が指定された場所にたどり着くと、ベンチにはすでに依頼人らしき男が座っていた。見た感じ、彼女と同い年に見える。黒のチェスターコートに白いシャツ、それにジーパン。普通のどこにでもいる青年という出立ちだったが、なぜかこの空間だと男の存在は特異的に見えた。  その男は彼女に気が付き、ベンチから立ち上がる。 「……どうも。今回依頼した橘といいます。どうかよろしく」 「初めまして。今回はよろしくお願いします」  いつも通り事務的に挨拶した彼女だったが、橘と名乗った男はその挨拶を聞いて、少し残念そうな顔をした。 「あの、何か?」 「ああ。いえいえ。何でもないですよ、何でも」 「それで今回、私はどのような……?」 「貴女ですよ」  橘は間を置かず即答した。ふざけている様子も見られない。反対に彼女は困惑していた。目の前の男は何を言っているのだろうと。 「今回、僕は貴女には貴女のままでいてほしいのです」  橘はそう言って、彼女に微笑みかけた。
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