7.叱責と嘲笑(後)

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7.叱責と嘲笑(後)

 六本木の街をぼんやりと歩いた。スーパーで買いものをして家に帰らなくてはと思うのに、人の流れに身を任せてラ・コリンヌ六本木方面に足を踏みいれていた。巨大な放射状のオブジェの周りに、スマホを見つめたり、あたりを見回す人々が立っている。彼らは独りではないのだ。これから誰かと会って楽しいひとときを過ごすのだろう。澄人は思わず下を向き、歯を食いしばった。 「あれ、番犬ちゃんじゃん」  聞きおぼえのある声に顔を上げ、息を呑んだ。面白そうに首を傾げ澄人を見ているのは結城至だった。  結城は澄人の目の前に立つと唇の片端を上げて嗤った。 「今日はご主人様はいないんだ、番犬ちゃん。それともご主人様はセフレとホテルかなあ?」  澄人は顔をしかめ、身を翻そうとした。その腕を掴まれた。結城は美しい顔に侮蔑の笑みを浮かべながら話しかけてくる。 「図星か。笑える。番犬ちゃんも大変だよね」  放っておけばいいのにと自分でもわかっていた。なのに言葉が口をついていた。 「何が言いたい?」 「あんた、ご主人様大好きなのに、ご主人様はいっつも別に男を作っちゃって、ぜーんぜん振りむいてくれなくてさ」  澄人の体が震えだしていた。結城が楽しそうに声を立てて笑う。 「気づいてないの? あんた、泰徳を見つめるとき、メス犬の顔してる。それも発情したメス」  結城の手を振りはらうが、その言葉は止まらない。 「あいつのはデカくてよかったぜ。あ、お世話してるんだから知ってるか。それとも一回くらいは突っこんでもらえた? もしケツがさみしいなら男紹介してやろっか? 俺のお古だけどな」  握りしめた拳を振りあげそうになったとき、声がかけられた。 「至?」  背の高い容姿の整った男が不思議そうな顔で結城に近づいてきた。その瞬間、 「――っ」  澄人の顔に冷たいものがべたりとかかった。結城に唾を吐きかけられた。嘲りのこもった目で結城が見つめている。 「気取ってんなよ。自分だけおきれいで特別だと思ってんだろ? だがな、泰徳と寝たいってだけで、あんたは俺と同類だ。いや、泰徳にセックス相手にも見られない、自分から縋りつけもしないだけで、俺以下だ。一生番犬止まりでいろよ、処女野郎!」  嘲りと笑い声に澄人は走りだした。悔しい。何も言いかえせなかった自分が情けない。息が切れるまで走りつづけて歩道の隅に立ち止まり、ポケットから出したハンカチで顔を拭う。ハンカチには涙も吸いこまれていった。  スーパーで買った弁当と缶ビールで夕食を済ませた。風呂に入る気力が湧かず、シャワーを浴び、ベッドに横になる。  泰徳は部下としての澄人がいなくなることも考えていた。中島はやる気がないなら辞めろと叱りつけてきた。結城は泰徳に縋りつけない番犬止まりと嘲った。  澄人は泰徳の言うとおりにすることが正しいと、影は主の命に従うことが喜びだと信じていた。なのになぜ今こんなに苦しいのか。  歯を食いしばっていた澄人は勢いよく起きあがるとクローゼットに向かった。Tシャツにジーンズ、紺のジャケットを身につけ、財布や鍵を持って部屋を出た。  泰徳に会いたい。会いたい。会いたい。今会いたい。  タワーマンションの敷地まではすぐに着いた。だが、エントランスに行く勇気が出ない。呼び出しホタンを押しても応答してもらえなかったら。帰れ、会いたくないと言われたら。他の者が世話係として入っていたら。  Tシャツの胸をぐしゃりと掴んだ手が震える。  結局、自分はどうしたいのか――  澄人は結局一時間ほど敷地の周辺をうろうろしたものの、何もできずに自宅へ戻った。  寝室に入るとそのままベッドに倒れ込んだ。ため息がこぼれる。 「泰徳、様……」  名を口にしたら胸の奥から込みあげるものがあった。両手で口を押さえ、目を閉じる。しかし、それを止めることはできなかった。 「うっ、く、うう……あ、ああ……」  涙が眦からこめかみへ伝い、泣き声が溢れる。  離れたくない。側に居させて欲しい。抱いて、欲しい。  目を開けると、まだ壁にかけてあった泰徳の笑顔の満ちたコルクボードが視界に入った。身を起こしてベッドを下り、その前に跪く。どの写真も泰徳は魅力的に笑っている。自信に満ちていたり、やさしく微笑んでいたり。レンズを通してこれらはすべて澄人に向けられていた。澄人のものだった。  泰徳は澄人に自由になれと言った。泰徳は自分を澄人の枷だと思っている。  枷だったならば外されてこんなに切なく、みっともなく泣くはずがない。澄人にとって泰徳は命であり、運命だった。なぜそれをわかってもらえないのか。  そのとき、頭の中に結城の言葉がよみがえった。 『自分から縋りつけもしないだけで、俺以下だ』  確かに澄人は泰徳に縋りついていない。主と影の枠組みが絶対だと思っていた。  だが、泰徳は自由になれと澄人に言った。自由とは泰徳から離れることだとばかり考えていた。しかし、真に自由ならば澄人は心の望むまま、この苦しい胸の内を泰徳にぶつけて、みっともなく足に縋りつくことも許されるのではないか。  そもそも泰徳が澄人を手放すと言いだしたあの事件のことや傷のことを、泰徳と話しあったことはない。だから泰徳の胸の内を澄人は知らなかった。恐らく澄人の思いも泰徳は知らない。  話しあいたい、泰徳と。泰徳が今までどんな思いを抱えて澄人を見ていたのか。見たくなければ遠ざけることができたのに、それをしなかった泰徳。言葉で伝えてほしい。澄人ももう一度思いを言葉にして泰徳に届けたい。だが、どうすれば泰徳と話す時間を作ることができるだろうか。
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