2.上司と部下(後)

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2.上司と部下(後)

 泰徳が穏やかな小声で訊ねた。 「澄人、お前は誰とどんな家に住みたいんだ? お前の理想はどんな家だ?」  問いかけに息を呑んだ。  泰徳が立ちあがる。 「入社以来、数字に表れる結果を出すことばかり考えてきたと思うが、君はここで一度原点に立ち返ってみた方が良さそうだ。この企画書は少し寝かそう」 「ありがとう、ございました」  席に戻る泰徳の背に頭を下げ、澄人は椅子を片付けた。  惨敗だ。足取り重く席に戻ると企画書を机の上に伏せて置き、休憩コーナーに向かった。自販機でブラックコーヒーを買い、窓際のカウンター席に座る。  澄人の理想の家を泰徳は問うた。しかし、澄人はそんなものを考えたことがなかい。大学で一戸建て住宅の設計及び、立体模型制作の課題が出されたが、大したコンセプトもないまま二階建て5DKの家を設計した。プレゼンテーションで教授にやり込められた苦い記憶が蘇る。 「白井ー、落ちこんどるなー」  女性の声に振りむく。紙コップを手ににやにやしながら近づいてきた眼鏡の女性は、課長補佐の中島智子(なかじまさとるこ)だ。 「課長にコテンパンにされたか?」 「はい、企画書を開いても貰えませんでした」  頷いた澄人の隣に中島が座る。 「いいねえ。若くても、幼馴染みでもまったく容赦がない。さすが特進組だ」  中島は澄人たちより年上の三十二歳である。もともと現場の設計部門におり、一級建築士資格を持っている。若い泰徳を補佐するため、この四月に現場から商品企画に異動になった。本人は歓迎会ですぐにも現場に戻ると息巻いていたが、一ヶ月半経った今は澄人はもちろん泰徳さえ弟のように思っているらしい。  澄人は温くなったコーヒーを口に運ぶ。 「課長補佐は、理想の家がありますか?」 「もちろんあるよ」 「どんな家ですか?」  中島がカップを置く。 「家中どこでも快適な家だな。夏は涼しく、冬は暖かく」  澄人はぽかんとした。それは当たり前ではないだろうか。中島がにやっとした。 「つまらない家だと思っただろう?」  慌てて首を振る。中島が笑顔でコーヒーを飲んだ。 「猫たちと暮らしているんでね。私がいない時間帯でもあの子らが過ごしやすい環境が必要なんだ。大切なもののために住みよい家は理想だろう?」 「はい……」  中島が紙コップを澄人のそれに軽く当てた。 「で、お前の理想は?」  澄人はため息をついた。 「よくわかりません。課長補佐のように同居者もいませんし、どんな場所でも順応することが大切だと思っていましたから」 「それはそれは――」  前途多難な、と中島が呟いた。思わず澄人はコーヒーを飲み干す中島の横顔に詰めよる。 「やはり問題ですか? 俺はお客様の気持ちが全然わかっていないですか?」  中島が必死になる澄人を見て苦笑した。 「いや、そういう意味じゃないよ」 「では、どういう……」  中島の顔が引きしまった。 「ここはお客様の理想を形にしやすくするための工夫を全社に提案する部署だ。そしてお客様の数だけ理想の家がある。そのことを頭の隅に置いておけば大丈夫。落ち着いて考えろ。お前ならできる」  中島が先に立った。澄人はその背を見送り、コーヒーの残る紙コップに口をつける。  中島の話を聞いて、澄人はわかってしまった。澄人には自分の家を持つという発想が始めからなかった。それどころか澄人は二級建築士である前に、この株式会社KUREBAYASHIの社員である前に、自分は泰徳の影――護衛兼世話係だと考えていたのだ。誰かとどこかに家を持つことなど望んでいない。当然結婚も考えていない。  泰徳はセフレを持つが、紅林家の名や金に寄ってきたとわかれば切り捨てる上、今まで誰も自分の私生活には深入りさせていない。そのセフレも同性ばかりで、結婚の意志はないらしい。側に置くのは澄人だけ。泰徳のプライベートに寄りそえる今の距離こそが澄人の理想なのだ。それに気がついてしまった。  だが、今後も泰徳が社内で昇進していくのなら、そしてトップに上りつめるのなら、置いていかれるわけにはいかない。どんな場面でも泰徳の側にいたい。客を惹きつける商品を企画し、数字として成果を出さなくては、泰徳と同じ部署にいられない。引き離されてしまう。  紙コップを握りつぶし、ダストボックスに入れると澄人は自席へ戻った。
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