3.理想の家(前)

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3.理想の家(前)

 過去の商品資料や他社のカタログを出して、ヒントや見逃している何かを探した。社内の共有データベースで実際の施工例を調べ、客の求める理想の家に思いを馳せた。しかし、あまりに多くの情報に触れたせいか混乱し、具体案は何も思いつかないまま定時を迎えてしまった。  もう少し考えるか、今日は諦めるべきか迷いつつ課長席を(うかがっ)ったとき、スマホが鳴動した。メッセージは泰徳からだった。 『一時間残業してから、夕食を一緒にとろう』  澄人は頭の上の霧が晴れた思いで、承諾の返信をした。  地下鉄で六本木に戻った二人が向かったのは、泰徳が贔屓(ひいき)にしているイタリアンレストランだ。お通し(アミューズ)にピクルス、白ワインをグラスで頼み、他はモッツァレラのカプレーゼ、真鯛のカルパッチョ、エビのアヒージョ、アラビアータペンネ、ナスとリコッタチーズのトマトソーススパゲッティにプロシュートのサラダと、二人でシェアすることを前提に泰徳が決めた。既に顔馴染みのため、あらかじめ取りわけ用の皿がテーブルに置かれた。 「今日はずっとしかめっ面だったな」  グラスを手にした泰徳の表情は優しい。それに甘えて苦笑が浮かんでしまう。 「資料を開いていただけなかったのは、さすがに(こた)えました」 「結局のところ個人住宅の場合、お客様のご要望をご予算内でいかにして叶えるかは現場の肩に掛かっている。企画はその前段階、お客様の目をいかに我が社に向けられるかが最重要課題だ」 「他社のサイトも見てみましたが、外観を限定し、間取りをシミュレーションさせるスクリプトは面白いと思いました。試したくなりましたから。システムキッチンや水まわり設備は四つのカラーパターンからの選択でした」  前菜のカルパッチョを口に運んだ泰徳が笑う。 「試したのか」 「はい」  アヒージョで塩気の残る舌に鯛はほのかに甘い。 「各部屋の内装はどうだ? 壁紙などまで指定されていたか」  はっとして泰徳を見つめ、それから視線を皿に落とした。 「それは、なかったです」  泰徳は何も言わなかった。考えてみれば、泰徳の企画で商品化されたドレッシーノも、外観と内装のイメージ、部屋を狭く見せない隠す収納を上手に組み込んだ間取りモデルが、見せる収納を好まない客層に人気を呼んだ。だが、各部屋の具体的な内装は建て主の個性が活かされたことだろう。 「澄人」  顔を上げると微笑んだ泰徳が、アラビアータを取りわけた皿を勧めてくれた。 「ありがとうございます」 「この後久々に二人で外飲みするか。課長の奢りだぞ」 「はい、うれしいです。ありがたくお受けします」  澄人は笑顔を返した。  レストランを出て、泰徳行きつけのバーへ歩いていたとき、人混みの中から声がした。 「泰徳さん!」  泰徳は聞こえないようすで歩き続ける。澄人は振りむいて声の主を確かめる。 「泰徳さんたら!」  泰徳の腕に縋りつくように寄りそったのは、結城至だった。 「他人の腕に触れるとは失礼だな」  泰徳が立ち止まり、結城を振りほどいた。結城は目に涙を浮かべる。 「俺が気に障ることをしたのなら謝ります。でも、あれきりなんて納得できない。せめて理由を教えて」  通りすぎる人が面白そうに眺めていく。澄人は結城と泰徳の間に割って入った。 「泰徳様が別れるとおっしゃったのなら、それまでということ。もうあなたの役割は終わったんです。立ち去りなさい」  結城がぎっと澄人をにらんだ。 「お前と話をしてるんじゃない。使用人の分際で出しゃばるな!」 「泰徳様にお仕えしているからこそ、邪魔な者は排除するんです」 「邪魔者だとっ?」  結城に胸ぐらを掴まれた。それを周囲の人々がはっきり目にしたのを確認してから、澄人は結城の手首を掴み、握りしめた。 「痛いっいたいっ」  叫んだ結城の手が胸元から離れた。澄人も結城を放す。 「何しやがるッ」  怒りに顔を真っ赤にした結城が拳を振りあげた。受け流すために上げた澄人の腕に、その拳が触れることはなかった。 「やめろ、結城至」  腹に響く泰徳の低い声だった。結城が怯えた目で泰徳を見ており、澄人も威圧感に息を呑んだまま動けない。 「お前が裏でしていたことは知っている。それだけで理由にならないか?」  顔を引きつらせた結城があがいた。澄人を指さす。 「じゃあこの男は何だよ。いつもあなたに付いてまわって、まるで金魚の糞だ」 「澄人は――」  泰徳の手が腰に回り、引きよせられた。驚いて泰徳を見上げる。 「俺の最も親しい友人であり、大切な幼馴染みだ。それを使用人だの何のとお前が言うのは無礼だし不愉快だ。もう二度と俺の前に顔を見せるな」  澄人は泰徳の顔が見られなかった。こんな状況なのになぜかうれしい。鼓動は速まり顔も体も熱い。 「くそっ」  そう吐き捨てた結城が野次馬の輪を割って走り去った。泰徳の手の温もりが腰から離れる。 「本当に俺は相手を見る目がなかったな」  ため息まじりの泰徳にまだ鼓動の速い澄人は首を振った。 「彼の猫の被り方が巧みだったのです。比較されないようにライバルを排除していきましたし」 「お前は優しいな」  泰徳が目を細めて見おろしてくる。慈しみに満ちた眼差しに思わず見とれてしまう。泰徳がふっと息を吐いた。 「気が削がれた。家で飲もう」  はい、と澄人は頷く。
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