つかの間の自由時間

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 まるで僕を祝福してくれているかのような晴れ渡った空。施設の横に併設された公園のベンチに腰掛けながら、僕は青い青い空に真っ直ぐに上っていく白い白い煙をまだ信じられない気持ちのまま見上げていた。  肌を撫でる風はほんのりと温かく、どこからか聞こえてくる鳥の鳴き声は耳に心地いい。目の前に現れる度に、手が届きそうなところでいつもひょいっと取り上げられ続けてきた自由が、やっと僕の元へとやってきたのだ。もうすぐ全てが終わる。今日から僕は本当の僕として生きていく。胸いっぱいに空気を吸い込むと僕を構成する細胞達の喜びの声が聞こえてくるようだった。 「そろそろかな」  スマホを確認すると指定された時間まで後少し。ぼちぼち向かうことにしよう。僕は勢いを付けてベンチから立ち上がると黒いズボンのポケットにスマホを滑り込ませ、ゆっくりと施設に向かって歩き始めた。 ーー 「それでは只今お連れ致しますので、こちらでお待ちください」  黒いスーツに白い手袋、黒縁眼鏡のいかにも真面目そうな職員さんがそう言った後、深くお辞儀をして部屋の奥にある扉へと向かい歩いていく。ゆったり動く彼の背中を見ていると、本当のところはどうかはわからないけれど、彼が僕に対して同情しているような気がした。  だって、この部屋には彼を除けば僕一人。二人とお別れの儀式をするのは僕たった一人。二人とも親族全員から縁を切られていたから当然といえば当然なのだけど。彼の目には僕がたった一人取り残された可哀そうな人間に見えているんだろうな。と、線香の香りに包まれながら、僕はぼんやりと考えた。  しかし、そう思っているのならそれは間違いだ。  僕だって他の親族たちのように、本当は彼らから離れた場所でなんの関係も無いような顔をして生きていたかった。でも、それは彼らが許さなかったのだ。一人息子である僕が自分たちの支配下から出て行くことは、彼らに対する裏切り行為でしかない。僕を育てるために費やしたリソース。それらを回収するのにかかる時間は彼らがこの世界を去る時までいっぱいいっぱい使ったとしても足りないと思っていただろうし、僕が稼いだお金すべてを巻き上げたとしても彼らは決して満足しなかっただろう。僕が稼いだお金で自由になるのはほんの数千円だけで、その数千円でさえ使うための自由な時間を僕は持てなかったことが、それが真実だったのだと証明している。  いつまで続くのか予想もつかなかった地獄のような日々。それがこんな形でいきなり終わるだなんて、一度として想像したことなんて無かった。そして死亡診断書を穴が開くほど確認した今でも、まだ心のどこかでは『彼らは本当は生きているのではないか』という疑いを持ち続けていたりする。  ぬか喜びさせられているだけなのではないか。そして喜びの絶頂で『お前が幸せになるなんて十年早いんだよ』と、いつものようにどん底に突き落とされるのではないか。何度も繰り返され、そのたびに心底幸せそうに笑う彼らの顔。忘れようと思っても忘れられない。あの顔が不意に僕の目の前にぼんやりと浮かび上がった。  ギュッと握りしめた両手がふるふると震え、血の気が引いてくる。そんな僕の様子を横目で心底痛ましそうに見ながら、彼は順番に彼らを僕の目の前に運んだ。 「それでは、ご説明させていただきます。こちらの仏様のような形をした……」  極力僕の方を見ないように配慮してくれている彼の両親は、たぶん、とてもよいご両親なんだろう。親子の間には切っても切れない絆があって、子の心配をしない親なんて存在しない世界。同じ世界線上にあるはずなのに、僕にはかすりもしない世界。うらやましいと言ったところで、喉から手が出るくらい欲したところで、決して僕の触れられる場所には無い世界。そしてそれとは逆に、彼は僕の存在しているこの世界には決して触れることは出来ない。不公平だと口にしたところで何が変わるわけでもない。ただ、そうなっているだけ。そうあるだけ。そんなことを考えても仕方がない。  しかし、彼らは僕とは違う世界へ旅立ったのだ。僕の稼いだお金で出かけた旅先で。僕の買った車と一緒に。  そうだ。僕は今日から自由なんだ。自由なんだよ。目の前に浮かぶ彼らの顔は幻。もう僕を罵ったり、僕を傷つけたりすることなんて出来ないんだ。何度もそう繰り返すうちに、震えは止まり、喜びで顔が上気してくるのが分かった。 「ではこちらへ……」  目を伏せたままの僕は、彼に言われるがまま長い長い箸を持ち、彼らの残骸の前に立った。  これで終わり。すべてが終わる。  すべきことは理解していた。  彼らの残骸を拾い白い壺にいれていく。ただそれだけのこと。  なのに。  それなのに。  僕は箸を伸ばした先にある白い彼らの残骸を直視した瞬間、身動きが取れなくなってしまった。  これで解放される  はずなのに  でも  どうして  額に嫌な汗が浮かんでくる。  彼らの残骸は残骸以外の何物でもないにもかかわらず、僕には『まだ私たちはここにいる』と強いメッセージを放っているように見えたのだ。 「あの……大丈夫ですか?」  心配そうに尋ねてくれる彼に、僕はゆるゆると頷くことしかできない。  ああ、そうか。そうなのか。  白い煙となって空高く舞い上がって行き、僕が解放されたと思っていたのは僕の勘違い。  彼らは大気と交わり、僕の周りに漂い、僕にへばり続けるのだ。たとえ僕がこの身体を捨て去ったとしても、どこまでもどこまでもまとわりついてくる。僕は逃げられない。そう。どこへ行っても。いつまでも。 <終>
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