1990年 春

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1990年 春

 新しい土地に引っ越して何度目かの朝、成瀬は滅多に着ることのないスーツを身につけて部屋を出た。  今日は再就職した病院の入職式。彼は緊張した面もちでバスに乗り込むと、吊革にしがみついた。  田舎暮らしが長かった成瀬は都市の混雑風景に困惑していた。次から次へと客が乗車し、知らないもの同士が体を密着させるのが何とも心地悪い。  成瀬は気を紛らわせるために車窓を眺めた。そこには見慣れぬ風景が映っていて、つい里心がついた彼は今まで勤務していた病院に想いを馳せていた。 ――― 今頃、申し送りの最中でバタバタしてるだろうな  国立病院付属の看護学校に通っていた成瀬は、卒業後その病院に就職した。配属された部署はCCU。心臓血管系の重症患者を対象とする集中治療室で三年間勤務した。  成瀬が退職の意向を示した時、同僚から「考え直して欲しい」と引き止められた。送別会の時には「いつでも戻っておいで」と涙を流された。  生まれて初めて人から必要とされる経験をした成瀬は後ろ髪を引かれる思いをしたが、引き返すことは出来なかった。全てが終わったらあの場所へ帰りたい――― 今はそう願うばかりである。  しばらく揺られていたら、目的のバス停に到着した。他の客に続いて人をかき分け下車すると、そばにある建物を目をすがめて仰ぎ見た。 ――― いよいよ復讐の幕開けだ  姉の不遇と引き替えにのうのうと暮らす男に断罪を下し、償いをさせる為にこれまで生きてきた。絶対、もくろみ通りに運んでみせる。順風満帆だった人生に陰りを与えてやる!  入職式を終えた成瀬は、他の新入職員とともに院内を案内された。ここは社会医療法人が運営する中規模病院で、診療部門は内科のみ、ベッド数は百二十床ほどである。  それぞれの部署で説明を受けながら、成瀬の視線は辺りをさまよっていた。姉の元婚約者を探して、この目に焼きつけようと思ったのだ。  医局にはいなかった。三階病棟にもいなかった。そして二階病棟のナースステーションに入ると、それらしき人物を見つけて目を凝らした。シャーカステンの前に座り、胸部のレントゲン写真を見ている。横顔しか伺えないが、写真の顔とそっくりだ。  配属される入職者が挨拶をし、成瀬も済ませた後、病棟師長がその場にいるナースとドクターを紹介した。 「…… そして、シャーカステンの前にいらっしゃるのが感染症の松岡先生」  ビンゴ…… そう心の中でつぶやいた成瀬は、二重の瞳を細めてじっと見つめた。目が合った松岡は穏やかだった眼差しを曇らせ始めた。自分に向けられる視線が尋常ではないことに気づいたのだろう。 ――― アイツは何も知らない、これから我が身に起こる不幸を……  しかし、そんな思惑を露とも知らない松岡の表情が再び変わった。まなじりを下げ、口角を上げ、微笑みかけてきたのである。  成瀬は驚いた。それがあまりにも自然で相手の心に沁み入るような温かさを孕んでいたから。そして、何となくバツが悪くなった彼は、そそくさと視線を逸らして唇を噛みしめていた。
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