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新しい病棟での勤務が始めると、成瀬は松岡どころではなくなった。就職後はCCUしか経験が無く、一般病棟に慣れるのに苦労したからだ。
CCUは心臓血管系の重症患者の救命を目的とした集中治療室のこと。ナースはフィジカルアセスメント(#1) とモニタリング(#2) を行いながら、高度な医療器具の操作・管理を任される。よって、受け持ちの患者数は一~三人で在室期間が短い。
一方、一般病棟は入院期間がまちまちで、日勤の受け持ち患者は十人前後。夜勤ともなれば三十人程を一人で看護する。そして、様々な内科疾患の急性期・慢性期の患者がいて、なかでも慢性期の患者は生涯病気と付き合っていかなければならない為、疾病の理解・自己管理の習得を援助し、本人と家族の精神的ケアを行なう必要があった。
慢性疾患患者の看護は、患者や家族と信頼関係を築くことが大事だが、十代のほとんどを引きこもっていた成瀬は、人とのコミュニケーションを苦手としていた。二十才目前に社会と関わりを持つようになり、最近ようやく人間関係の築き方が分かってきたといった具合だ。
成瀬は悩んだ。その結果、肩の力を抜いて話しかけやすい雰囲気を作ることにした。
どちらかと言えば無愛想なので、意識して笑顔を作り、丁寧に患者と接した。業務に追われることがあっても忙しさを患者に悟られないように配慮し、患者の訴えに耳を傾け、要求に迅速に対応することで信頼を得るよう努めた。
そんな努力を続けても、男性看護師ゆえに奇異の目を向けられたり、「男のくせに」とあからさまな言葉を投げつけられてヘコみそうになったが、そんな時は一番辛かった頃を思い出して『それに比べたら大したことじゃない』と自分を鼓舞し、男性ならではの看護を追求する方向へシフトさせた。すると、次第に患者の反応が変わり、医療行為や清潔介助など指名されたりするようになった。
そんな成瀬に、スタッフ達はさほど時間をかけずに打ち解けていった。飄々としているが人当たりが良く、業務もそつなくこなしたので一緒に仕事がしやすかったし、急変した患者への対応が場馴れしていて頼りになったからである。
成瀬が新しい病院で働きだして数日後、入職者の歓迎会が行われた。場所は病院近くの居酒屋で、乾杯の音頭のあと、成瀬はスタッフ達から質問攻めにあった。仕事はどうか? に始まり、以前勤めていた病院のこと、CCUについて、看護師を志した理由、はたまた彼女の有無…… etc.
成瀬はそれらに丁寧に答えたが、その合間に辺りに視線を配らせていた。
実は、松岡がまだ到着していなかった。日勤の終わり頃に入院があったからだ。処置がすんだらこちらへ向かうことになっているが、三十分経ってもやって来る気配がない。
――― 今日は、彼と接近するチャンスだったのに
やきもきしながら待つこと一時間、ようやく松岡が姿を現した。水色のデニムシャツにチノパンというカジュアルないでたちの彼は「お疲れさまでした」というスタッフの労いの言葉を受けながら席に着くと、入職者それぞれの名前を呼んで「今後ともよろしくお願いします」とグラスを掲げて乾杯した。
成瀬は周囲と話しをしながら、松岡にチラチラと視線を送った。彼の周辺は盛り上がり、笑い声がこちらまで届いてくる。どうやらスタッフに慕われているようで面白くない。
頃合いを見て、成瀬は松岡に挨拶をしようとビール瓶を探し始めた。が、生憎どれも空っぽで、仕方なく身一つで出向こうとしたら、「そろそろお開きにしたいと思います」と幹事の声がしてチャンスを逸した。
心の中で舌打ちした成瀬は、解散後に松岡の後をつけることにした。このまま家へ帰るのか、はたまたどこかへ寄り道するのか興味があったからだ。
松岡は帰る方向が一緒の看護師と歩いていたが、途中で別れて一人になった。
尾行なんて初めてだった成瀬は、歩調を合わせるのに苦労した。近づきすぎると見つかるし、遠すぎると見失う。適度な距離を保ちながら松岡の後ろ姿を追っていたのだが、ふとある思いがよぎり胸がざわついた。
――― もしかしたら、あそこへ行くかも
あそことは、以前興信所に張り込んでもらっていた際に彼が足を運んだハッテン場のこと。もしそうなった場合は、自分も中に入って偶然を装い声をかけようと画策した。
#1)患者の身体に触れながら症状の把握や異常の早期発見を行うこと
#2)患者監視装置による観察
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