1990年 春

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 成瀬は松岡の後姿を懸命に追った。路側帯に駐車しているタクシーには目もくれず歩いているところを見ると、このまま家路につく気はないようで期待に胸が膨らむ。が、同時に悩んでもいた。ハッテン場へ侵入するのはいいけれど、完全会員制だった場合は? べらぼうに高い料金だったら? 変な客に絡まれたら? システムなんて全然知らない。ああ、こんなことなら事前にリサーチすべきだった…… と後悔しても後の祭で、『もう知るか!』と腹を括って後をつけていたら、松岡の姿がビルの中へ消えた。 ――― いったいどこへ行った?  慌てて追いかけると、そこは深夜まで営業している書店。気付かれぬよう中を伺ったが それらしき人影はなくて、意を決して店内に足を踏み入れた。  新刊のコーナー、単行本のコーナー、専門書のコーナーをざっと巡り、最後に雑誌コーナーで立ち読みする男性たちをチェックすると果たして松岡がいた。彼は車関係の雑誌に見入っているが、しばらくするとそれを手にしたまま移動し歩みを止めた場所に、成瀬は思わず息を呑む。そこは、妊娠・出産関係の書籍が並ぶコーナーで、松岡が手を伸ばして取ったのが赤ん坊の姓名判断の本だったのだ。  本を二冊購入した松岡が次に寄り道したのは、同じ通りにある喫茶店だった。コーヒーでも飲むのか?と思いきや、豆だけ買って店を出て、すぐさま空車のタクシーを捕まえて乗り込んだ。  テールランプを見送った成瀬は尾行を中止した。どう考えても、このあと男を漁りにいくとは思えない。子どもの名づけの本と珈琲豆の土産を抱えて妻の元へ帰るに決まっている。 ――― なにいい旦那気取りをしてるんだ!  適当に遊びつつ、妻も大事にしている松岡とどう関わりを持つか悩んだが、『まだ始まったばかりだ、今にチャンスは巡ってくる』と気持ちを切り替えて家路についた。しかし、その後も松岡と話す機会に恵まれなかった。日勤中は仕事に追われ、頼みの夜勤も入職したばかりなので、もう少し後になりそうだ。  そんな中、松岡の仕事ぶりをつぶさに観察したが、まだ研修医の期間が終了してさほど間もないのにソツなく診療に当たる姿に一目置かざるを得ない状況になっていた。どんな重篤な患者が来ようと、問診と診察と検査データをもとに正しい診断を下して適切な治療にあたり、看護師たちに穏やかな物腰で指示を出す姿は将来を嘱望される人材であったが、反面無邪気さも備えていた。  ある日曜の日勤。夜勤を終えた松岡が病棟に降りて来ると、一人の看護師を呼び寄せ彼女から車のキーを受け取った。「ありがとう」と満面の笑み浮かべながら、いそいそとエレベーターで降りて行く後ろ姿を見つめながら成瀬が理由を尋ねると、 「新車を買った話をしたら『三十分でいいから貸して』だって……」  ふと成瀬の脳裏に、先日の本屋の光景が蘇ってくる。 ――― あいつ、車バカだった  松岡は約束の時間を少しオーバーして戻って来ると、キ―と共に大きな紙袋を看護師に渡した。ケーキ屋のロゴが入ったそれを休憩時間に開けると、箱一杯にショートケーキが敷き詰められていて辺りが騒然となった。「美味しそう!」「得した!」「太っ腹!」と歓声が上がる中、成瀬も「松岡先生ってなかなかやりますね」と、心にも無いことを言うしかなかった。
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