1990年 春

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 病棟の業務に慣れてきた頃、成瀬は夜勤を任されることになった。  看護師になって五年目。これまで幾度となく夜勤をこなしてきたが、一般病棟での経験がない彼は勝手が違って苦労した。  業務内容は、日勤者から入院患者六十人分の申し送りを受けた後、夕食後の内服薬の準備とインスリンの自己注射を指導する。その後、配膳、食事介助、薬の配布。その合間に食事をとって、検温、点滴の準備と実施。ナースステーションにいる間は看護日誌を書き、セントラルモニターに目を配り、ナースコールがあれば患者の元へ飛んでいく。  CCUでは一人一人の患者の重症度が高く精神的疲労が強かったが、ここでは決められた時間内に数多くの仕事をこなさなくてはならないので肉体的疲労が強かった。仕事の優先順位と時間配分を考えて行動しなければ、二十一時に消灯できないという大失態を犯しかねない。  夜勤業務を任されて何度目かの晩、事件が起こった。成瀬の受け持ち患者が急遽外泊をしたいと言いだしたのだ。  うっ血性心不全で入院してきたその患者は一時生命も危ぶまれたが、治療の甲斐あってベッド上安静から病棟内歩行の許可が下りるほど回復した。そんな彼が仕事のトラブル解決のため、今から会社に行くと言って聞かない。  十人近くの点滴を終えて、今から重症患者の清潔援助に向かおうとしていた成瀬は目の前が真っ白になった。  いくら自力歩行が許されたとはいえ、今日の午前中まで酸素吸入を行っていた体で外泊したら一気に病状が悪化するのは火を見るよりも明らか。状態が回復するまで何週間もかけて治療してきたのに、これじゃ元の木阿弥だと焦った成瀬は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったのだが、病室へ向かう一歩が出ずに立ち竦んでしまった。  患者の市田は表向きは土木建築会社の社長だが、実は暴力団関係者だった。そんな彼に盾突いたら、どんな目にあうか想像しただけでも恐ろしい。否、自分だけじゃない。他の患者にも被害が及ぶことになったら目も当てられないし、病院の信用問題にも関わってくる。そうは思うのだけれど……  そして、成瀬は取るべき行動を即決した。 「市田さんを説得してきます」 「無茶よ!」 「外泊なんてしたら一気に病状が悪化します。ぜったい引き留めないと」 「あの人、私たちの手に負えないって。当直の先生に報告して指示を仰ごう」 「当直の先生って、松岡先生ですよね?」 「うん」  あいつに丸投げして責任を負わせたら面白いかも…… と、邪な気持ちが芽生えたが、復讐心より患者を危惧する気持ちが勝った成瀬は「まず自分から話してみます。もし駄目な時は応援を頼みます」そう言い残して病室へ向かった。  そう、自分は担当看護師として市田が入院してきた時から親身になって寄り添ってきた。  市田は「男のくせにこんな仕事をして」と蔑んで目も合わせてくれなかったが、症状の緩和に繋がるケアをし、ベッド上安静の苦痛を取り除く援助を行い、言葉の裏や表情に潜む欲求を読み取って先取りの看護を心がけてきた。結果、今では心を開いて信頼を寄せてくれるようになった。だから、今回も誠心誠意話しをすれば納得してくれるに違いないのである。  成瀬のもくろみは成功した。  成瀬の真摯な態度に気持ちを軟化させた市田は病室に引き上げ、ナースステーションに残った成瀬は椅子にへたり込んでしまった。額や首元が気持ち悪い。手のひらで拭うと、べったり冷や汗がこべりついていた。  隣の処置室で成り行きを見守っていた看護師と松岡が戻ってきてこっちを見つめている。なんだかバツが悪くなった成瀬はワザとおどけてみせた。 「あ~、緊張した」 「君には感動したよ」 「とんでもない、足がガクガク震えてぶっ倒れる寸前だったんですから」 「成瀬君のこと、見直しちゃった」 「ずっと頼りないって思ってたんでしょう?」 「違う。人によって態度を変えないあなたを尊敬したの」 「仁義に熱い人だから、こちらの気持ちや立場を説明すれば何とかなるんじゃないかと思ったんです。まあ、半信半疑だったけど」 「でも、ちょっと無謀だったかもね」 「先生がいて下さったから出来たんです。何かあっても助けてくれると信じていたから」  今夜は松岡と初めての夜勤だったのに散々な目に合った。せめて、これくらい言っとかないと…… と、リップサービスしたのだが、この日を境に松岡の自分を見る目が変わったのを、成瀬は後日感じるようになった。
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