1990年 夏

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1990年 夏

 あの騒動から、松岡は成瀬に好意的な態度を示すようになった。朝、ナースステーションにやってくると「お早う」と挨拶し、検査伝票や処方箋を名指しで預ける。成瀬の姿が見えない日には「今日は休み?」と尋ねるほどの気にかけよう。一見、贔屓にもとれる態度だが、他のナースは『病院唯一の男性看護師に対する松岡なりの気遣い』と、微笑ましい目で見ていた。  こんな展開になるとは思っていなかった成瀬は、諸手を挙げて喜んだ。さらに踏み込んだ関係になりたい――― そう願った彼は、後日行われる病棟主催のビアガーデンに望みを託すことにした。  ビアガーデン当日。  成瀬は松岡の隣になることを願いながら幹事が作った席順のくじを引いたが、見事に外れて肩を落とした。  まあいい、頃合いを見て酌をしに行こう…… そう気持ちを切り替えて周辺のスタッフと交流を深めていると、隣にいる循環器のドクターがやたらと話しかけてきて鬱陶しかった。  加納(かのう)は二ヶ月前に導入された心臓カテーテル検査の直接介助をして以来纏わりつくようになった。いい男なので及第点だが、彼にも色目を使ったことが松岡にバレると厄介なので、痛いほど伝わってくる好意をあえて無視している。しかし、一向にヘコたれない彼はグイグイ迫ってきて いい加減迷惑だ。 「成瀬君、すっかり病棟に馴染んだね」 「そうですか?」 「十年くらい いるみたい」 「それ、言い過ぎです」 「でも、何でこんなところに就職したの?」 「理由なんて特に……」 「もっと大きな病院にしたら良かったのに」 「これくらいが丁度いいです」 「休みの日は何してるの?」 「何もしてません」 「今度一緒に遊ばない?」 「……」 「今週の日曜なんてどう?」 「その日は日勤です」 「次の週は?」 「夜勤明けです」 「いつならいいの?」 「スケジュール帳が無いからわかりません」 「つれないねぇ……」  実は、成瀬の耳は同じテーブルの端を陣取るスタッフ達の話を聞くのに必死だった。その中心に松岡がいて、結婚についての質問に答えていたのだ。  松岡は澄ました顔で「妻とは見合い結婚だった」「見合いも悪くない。最初から親公認・結婚前提だから無駄な時間を費やさなくていい」と言い、それを聞いた成瀬は激怒した。 ――― なら、姉さんとのことは無駄な時間だったっていうのか!?  むしゃくしゃしてきた成瀬はジョッキを煽ぎ、加納が甲斐甲斐しくビールを注ぐ。その後、話題は松岡の実家の旅館に移ったが、そのことは興信所の報告で知っていたのでどうでもよく、荒んだ気持ちを落ちつかせるために「トイレに行ってきます」と言い残して席を立った。 ――― やば、飲み過ぎた  ふらつく足をなだめながら、成瀬は酔った頭で考えた。 ――― とにかく、今日は松岡に近づく絶好の機会なんだ。用を足したらそのままアイツの席へ直行しよう。そして、二次会では絶対傍から離れない)  しかし、本当は不安で一杯だった。  松岡の好意は分かっているが、だからといって自分と親密になることを望んでいるとは限らない。もし、彼のお眼鏡にかなわなかった場合はどうしたらいい? ――― いや、なんとかなる、なんとかして見せる  例えタイプじゃなくても、さっきの加納を見習って押しまくれば気の迷いが生じるかもしれないのだから……  気を取り直す為に一服しよう――― そう思った成瀬は喫煙コーナーへ行って馴染みの箱を取り出した。  喫煙歴は十年になる。最初は隠れて吸っていたが、父親が何も言わないので堂々と吸うようになった。仕事場では吸わないのでスタッフらは喫煙することを知らない。  成瀬は残り少なくなった煙草の一本に火を灯すと、ゆっくりと煙を吸い込んだ。酔った体と相まって眩暈の加減がいつもより強い。 ――― うまい……   こうして二、三回ふかした後だった。ふと視界に入った人影に酔いが醒める思いがした。なんと、ターゲットが視線の先で紫煙を燻らせているではないか!
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