1990年 夏

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 一瞬、成瀬はたじろいだ。しかし、『いよいよ復讐の幕開けだ!』と己を奮い立たせると、一歩二歩と近づいた。   一方、松岡は成瀬の存在に気づいておらず、フェンスの向こう側に拡がる夜景を見つめながら煙草を吸っていた。しかし、その横顔は今まで見せたことのないような憂いに満ちている。 ――― さっきまで楽しそうに喋っていたくせに、あれはうわべだけだったのか?)    松岡の別の一面を見て少し驚いた成瀬だったが、気を取り直すと「松岡先生?」と媚を含んだ声で呼びかけてみた。 「先生も一服ですか?」  振り返った松岡は、成瀬と手にした煙草を何度も見比べてこう言った。 「吸うんだ……」 「喫煙歴十年のヘビースモーカーです」 「いくつだっけ?」 「二十六」 「未成年の時から?」 「不良だったもんで」  成瀬は煙草を咥え直すと大きく吸い、ゆっくり吐きだした。そして、フェンスに近づくと、松岡がしていたように夜の街を眺めた。 ――― 良かった。酔っているせいか、さほど緊張していない)  この時ばかりは、空いたジョッキにせっせとビールをついでくれた加納に感謝する。  松岡は黙り込んでいたが、視線は成瀬に注がれていた。『こんな時は振り返って微笑んだ方がいいんだろうか?』と、吸いかけの煙草を唇から離そうとしたら、松岡が傍に近づき耳元で囁いた。 「なにか見える?」 「ここは都会だなと思って。見渡す限りビルの明かりやネオンが輝いているから」 「前に住んでいた所はどうだったの?」 「夜になると空一面に星が瞬くような場所でした」 「そこはどこ?」 「O県のH市です」 「奇遇だ。以前、そこの市立病院で働いたことがある」 「そうなんですか?」 「長閑な町だった。娯楽といったらスナックとカラオケとパチンコと雀荘くらいしかなくて。でも、山あり川あり温泉ありの風光明媚なところだったから、しょっちゅう車で遠出したよ」  以前、姉が『彼とよくドライブへ行った』と言ったことを思い出した成瀬が「彼女とですか?」と皮肉を込めて尋ねると、松岡は「彼女の時もあったし、そうじゃない時もあった」と答えた。 「『よりどりみどり』だったってわけですね」 「もしかして、さっきの話聞いてた?」 「『見合いも悪くない』って言ってましたね。さんざん遊んだ男の余裕発言だな…… って羨ましかったです」  嫌味で言ったのに、何を思ったのか松岡は真剣な面持ちになって尋ねた。 「もしかしてこっちへ来る前、市民病院で働いてたとか」  元恋人と同じ職場だったのではないのか? と、危惧しているのだと解釈した成瀬は「いいえ、勤務していたのは隣町の国立病院です」と答えた。  松岡の表情が安堵に変わった。そして、今度は今の病院へ来た理由を尋ねてきたので、何パターンかある理由の一つを話した。 「理由なんてないです。あえて言うなら、田舎暮らしから抜け出したかったってところかな」 「こっちの生活はどう? もう慣れた?」 「思ったほど良くないです。知らない町を出歩くのが億劫だし、遊んでくれる人もいないし。仕事以外はビデオを観たりゲームをしたりで以前と同じ生活をしています」 「彼女とかいないの?」 「いません。この前、レントゲン技師さんにコンパに誘われたけどキャンセルしました。俺、女性が苦手なんで」 「そうなんだ」 「話しをするのが億劫なんです。興味の無い話を聞くのが苦痛というか、時間の無駄というか」 「厳しいこと言うね」 「恋愛感情を持てないのが原因なんでしょう」 「それって、性的に受けつけないってこと?」 「そう…… かもしれないです。いやだな、こんなことを話すの、先生が初めてだ」  目を伏せ、俯いた横顔を松岡に晒す。そう、いかにも恥じらっているように……。そしてこの時、成瀬はハッテン場で出会った男の言葉を思い出していた。 『君ってルックスがいいし性格も可愛いから、迫られたら断れないよ』  彼の言葉を信じるんだ。目の前の男だって例外じゃない ――― そう自分に言い聞かせていたら 「ねえ、これから二人で飲み直さない?」  望んでいた言葉に、成瀬が歓喜する。 「これから? 二人で?」 「君とさしで話がしたいな」 「二次会は?」 「キャンセルしよう。行く? 行かない? どっち?」 ――― やった……   復讐の第一関門の突破を確信した成瀬は、企みを悟られぬよう満面の笑みを浮かべると「行きます、連れて行ってください」と答えるのだった。
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