1990年 夏

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 二次会の誘いを断った成瀬と松岡は、病棟のスタッフ達と別れて夜の街を歩き始めた。  松岡と肩を並べて歩く成瀬は、一世一代の大勝負とばかりに緊張していた。ようやく二人で飲みに行くところまで漕ぎつけたものの、相手の気を引く会話や駆け引きが上手く出来るか不安だったからである。  話題の引き出しが少ないことは、成瀬自身よく分かっていた。社会情勢や時事問題に詳しくなく、人の噂にも疎く、趣味も特技も持ち合わせていない。ましてや駆け引きなんて、恋愛経験のない自分にはそんなテクニックがあるはずもなかった。  復讐を果たすと息巻いているにもかかわらず、一番肝心なコミュニケーションと恋愛のスキルが低くては如何ともし難いが、今更ジタバタしたってしょうがない。 ――― 松岡を患者と思えばいい。患者とのコミュニケーションで一番大事なのは、共感的態度と傾聴で……   そう考えながら松岡の話に一生懸命耳を傾け話しをしたが、気がつけば緊張感が薄らぎ肩の力が抜けていた。  理由は、松岡のコミュニケーション能力の高さだった。  彼は必ず話題を振ってくる。たとえ拙い返事をしても、言葉の端々を拾って話を展開させる。その上、こちらの発言に共感するので、つい饒舌になって本音を漏らしてしまう――― そんな松岡の会話術に成瀬は感心した。そして、自分の姉も、彼のそんなところに魅かれたのかもしれないと思い始めていた。  タクシーの順番待ちをしている間、松岡は成瀬の初対面の印象を語った。 「実を言うと、看護士がうちの病院に来ると聞いたとき不安だったんだ。だけど、入職式を終えて病棟に上がってきた君を見た時『うまくやっていけそうだ』と確信して それが的中した。君が潤滑油になって病棟全体がいい雰囲気になっているからね」 「そう言ってもらえて嬉しいです」 「で、感謝の気持ちとして御馳走するよ」 「御馳走? 今から?」 「寿司ぐらい入るだろう?」 「寿司~っ!?」 「タクシーで五分もかからないところに行きつけがあるんだ。魚は大丈夫?」 「大丈夫ですけど…… いいんですか?」 「いいもなにも、僕が誘ってるんだから」  寿司屋なんて雑誌かテレビでしか見たことがなかった。最近、街中で見かけるようになった回転寿司も足を運んだ経験がない。しきたりも作法も知らない自分がついていったら松岡に恥をかかせて疎遠にされると思ったが、当の本人は上機嫌で辞退を申し出る隙も与えてくれない。  タクシーの順番が来ると、松岡は成瀬を先に座らせて後から乗った。行き先を告げると車は滑らかに走りだしたが、成瀬はこうべを垂れて体を硬直させていた。 「俺、寿司屋なんて初めてです」 「好きなものを注文してね」 「何が食べたいのかもわかりません」 「じゃあ、僕が頼むから遠慮なく食べて」 「あ、ありがとうございます」 「まだ飲めそう? ビアガーデンではどのくらい飲んだ?」 「ジョッキ二杯くらい。先生は?」 「僕もそんな感じ。ああいう所の料理っていまいちなんだよね。雰囲気を楽しむにはいいけど」  涼しい顔をして話す松岡が憎らしくなってきた。もしかして、こっちの企みは全てお見通しで意地悪しているんじゃないのか? と疑うほど。  頭を悶々とさせていると光の早さで五分が経ち、「着いたよ」と言われて車から降りれば、高級感あふれる門構えが目の前にあった。  店名が白く染め抜かれた藍色の暖簾をくぐって引き戸を開ける。「へい、いらっしゃい」と威勢のいい声で迎えられて緊張がピークに達する。  囚われ人の様な心境の成瀬は松岡の後ろをくっついて歩き、言われるままに座わり、出されたおしぼりでおずおずと手を拭いた。少し余裕が出てきて辺りを見回せば、鏡の様な漆塗りのつけ台と氷冷庫に並ぶネタの数々に圧倒される。  松岡はまるで友人宅に招かれたような気軽さで大将に言った。 「とりあえず、つまみを適当に切ってもらえますか。成瀬君、酒は何にする?」 「ええっと……、どうしようかな?」 「さっきはビールだったからね、僕は日本酒か焼酎のどっちかだな」  すると、寿司屋の大将が黒麹仕込みの焼酎を勧めて、松岡は「それがいい」と言い、何が何だか分からない成瀬もまた「じゃあ、俺もそれで……」と小声で答えたのだった。
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